たまに考えてみる 一覧

教科書。


ニュースです!ニュースでやんす?!
なんと!、この春出版される武蔵野美術大学の木工の教科書に、
びっくり!、このブログを見て下さってる方ならおなじみの『アインとニーチェ』が、
こっそり!、載せてもらっています。
って、こっそりと思ったら、なにやってんだい表紙に出て来ちゃって、
前に出過ぎちゃだめじゃないか~、これじゃ刷り直しだよっ、まったくも~。
えっ!これでいく?まさか・・・ほんとに、これでいくんですか?
教科書には落書きが専門だった僕が、
それなりの専門として作品を教科書に載せてもらえるなんて!
あってよいのでしょうか?信じてよいのでしょうか?
と、まぁそんなやりとりがあったとかなかったとか、冗談はさておき、
こんなことが現実だなんて、ほんと嬉しい出来事です。
まさか自分が木工を始めた場所の、これから木工を始める生徒達に読まれる教科書に、
卒業後つくり続けてきた作品が紹介されるなんて!
なによりも自分の恩師達に作家としてある程度認めてもらえたのかと思うと、
なんとも感慨深く、やってきてよかった、やってみるものだなと思いました。
真新しい教科書をめくると、この課題やったな~と、
武蔵美で木工を始めた頃のことが思い出され、
当初はジョージナカシマやウェグナーに憧れて、
家具作家になりたいなんて意気込んでいたのが懐かしく思い出されます。
いつの間にかこども用の家具をテーマにして、
さらに「おもちゃ」を自分の表現に選んでいくのだけれど、
今やっている「テイクジー・トイズ」という活動の手法や技術は、
この木工工房と工芸工業デザイン学科の課程で教わったことが基本にあることを、
改めて思いました。
それにしても僕が学んだ「工芸工業デザイン学科」というネーミングは、
よく考えてみると、面白い言葉の集合だなぁと思います。
明治に西洋の意味においての「美術」という概念が入ってくる前の
日本における「美術」そのものの総体は、
まさに「工芸」であり、「美術」「工業」「デザイン」はその一部、もしくは同義でした。
それらが分割されずに、ある意味では混沌とした、またある意味では豊かな、
造形表現が存在していたのだと思います。
民芸運動の指導者、柳宗悦は『私の念願』と題する本の中で、
「一般には美術と工芸とは二つの部門に分かれいるが、元来は一つであって、
近代にこれが別れたに過ぎない。その結果後の発生である美術は更に進んだものとして、
今日では美の標準を美術に置くことを習慣とし常識としてきた。
しかし私はむしろ逆に『工芸的なるもの』にその標準を求めるのが至当(しとう)であることを
明らかにしたいのである。もろもろの美に共通する普遍的原理を立てることは、
私の念願の大きな一つである。」
と書いたのは1942年のこと。
結果から見れば、美の標準を美術から工芸に取り戻そうという
この念願は現時点ではまだ叶っていないような気がしますが、
当時は「工芸的なるもの」つまり「工芸」が、「工業(製品)」や「デザイン」などに
今のように完全に別れてしまう前の幸せな時代だったということもできます。
なぜなら、その後には「工業」や「デザイン」に、
「工芸」に残っていた他の標準も明け渡さざるをえなくなるのですから。
鑑賞において「美術」に、安価では「工業」に、機能において「デザイン」に、
突き詰め、進めていくと、どこか劣ってしまう「工芸」ですが、
「美術」が純粋美術を目指す過程で捨ててきたモノ、
「工業(製品)」が生産性を求める上で排除してきたモノ、
「デザイン」が付加価値なる謎の価値に邁進するために忘れてきてしまったモノを、
拾い集め、伝統とか、生活とか、自然とか、ぬくもりとか、
言葉にするとむずがゆいような懐かしさとともに、懐深く包み込んで、
守り育て続けて来たのは「工芸」ではなかったかと思います。
先ほどの柳宗悦の念願に足りないものがあるとするなら、
「美の標準を美術に置く」ことの「むしろ逆に『工芸的なるもの』にその標準を求め」た、
結果として「民芸」という細分化を推し進めるのではなく、
むしろ逆に「美術」も「工業」も「デザイン」も「美術工芸」も「伝統工芸」も「農民美術」も
情熱を持って美しいものを作ろうとした痕跡すべてを「工芸」と捉える方が、
「工芸」がもっていた豊かな「美の標準」なるものに近づけるのではないかと思います。
そのような意味で、工芸工業デザインという学科がもっている幅の広さは、
そこで学ぶ学生の作品を豊かなものにするに違いないと思います。
実のところ、学生時代の僕は「工芸」という分野の曖昧さ、わけの分からなさに、
反発心のようなものをもっていました。
「伝統」という重苦しさ、「用の美」とかいう中途半端な概念、
「民芸」という行き止まり感、「ぬくもり」などの気恥ずかしさ。
ただでさえパイの小さな美術の世界に、ぽっかり浮んだ「工芸」という小島のなかで、
さらに「美術工芸」だ「クラフト」だ「民芸」だ「伝統工芸」だと部族間闘争。
そんな小競り合いをしているうちに「工芸」なんて一般的には
忘れられちゃうじゃないだろうかと、焦りのようなものを感じていました。
「工芸」という分野は学校の中にしか存在していないように思えたのです。
でもそんなうがった見方は自分の無知から来るものだと、
作家活動をする中で、沢山の人やモノ、コトと出会うことで、
反省し、今は随分と理解できるようになったと思えます。
ただ、それは若者が(あの日の僕が)無知ではいけなかったということではなく、
師や学校という環境自体が「美術」や「工芸」という体系を形づくり、
反発するにしろ、素直に学ぶにしろ、その中でもがくことで、
無知のままに自身も作品も体系の一部になりうる、
もしくは若いが故、無知が故に先端にあることができてしまう可能性をもっている、
と言えるのかもしれないと思います。
おそらくそれが教育の意味であり、美術大学の有効性じゃないでしょうか。
まぁ、とにもかくにも僕のようなはみ出した表現を、
教科書の表紙に加えて下さった十時啓悦先生、田代真先生、北川八十治先生の
心の広さが、僕が学んだ「工芸」というものの豊かさなのだと思います。
先生、ほんとうにありがとうございました!
このことをなによりの応援と思い、よりいっそうがんばります。
ちなみに、一般の書店でも購入できるそうです。
内容は木の椅子の制作を中心に、木でつくられるモノなどの紹介、
アイデアスケッチからモデルの作成、図面の描き方、
木工道具、電動工具、塗装といった基礎知識まで、
カラー写真を多用してあり、初心者にも分かりやすい内容です。
マニアックな方は、美術大学の木工教育を覗いて見るのにも面白いかと思います。
■木工[樹をデザインする]
監修 十時啓悦
著者 十時啓悦・田代真・北川八十治・大串哲郎
出版 武蔵野美術大学出版局

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高村豊周。

うちの娘経由で、家族揃ってお腹を壊したり、
住んでる地区の協議委員になってしまい、会に参加したり、
あれよあれよと、ブログがおろそかに・・・。
今年も始まったかと思えば、もう2月だし、年を取ると時間が早く感じると言うけど、
30歳になって、つくづく納得の今日この頃です。
さて、前回の続きで「高村豊周」について少し書こうかと思います。
(とはいえこれは、樋田豊次郎著『工芸の領分』を読んだ受け売りを、
なんとなくこんな感じかなで書こうと思うので、
工芸をやってる人などは、本を読んだ方がいいです。)
高村豊周は 高村光雲の三男、高村光太郎の弟として1890年に生まれ、
東京美術学校(現:東京芸大)鋳造科で鋳金を学びます。
1926年に同年代の若者(松田権六・佐々木象堂など)と共に『无型(むけい)』という工芸団体結成。
高村は无型の中心人物として、当時の工芸界で自分の近代的工芸を主張し、
昭和初期に置ける工芸近代化に重要な役割を果たしました。
なんだかカタくなりましたが、この无型の結成時に高村が書いたといわれる宣言が、
ちょっと面白いです。
「无型の誕生」
无型は無型、型ナシだ。型をもたぬ。すべて自由に、各人各様の姿態を持つ。
それならば何でもよいかといふに、必ずしもそうではない。
各人各様の姿態を通じて目に見えぬ線の連鎖があるのでなければならぬ。
燃え上がる情熱と生一本のムキな意気込みと牛のような根気と、
そして美しい未来へのあこがれと、ーーーこれだけは是非ともなくてはかなわぬ。
懐古趣味、退嬰、萎縮、安息、死滅、空虚、沈黙、現状維持、事勿れ、
ーーーこれは无型の最も排斥するところだ。
新鮮、ブィブィッド、溌溂、前進、躍動、充実、現状破壊、未来、歓声、
ーーーすべて光ある彼方へ向かって无型は旗を振りかざす。
今は即ち今だ。飛び去る瞬間だ。この瞬間を愛せよ。この瞬間に息づく工芸美術を作れ、守れ。
大宮人が桜をかざして歩いた時代を憧憬する者よ、まづ死ね。
・・・、え・・・「死ね」って?
(近頃の若いもんは簡単に「死ね」とか言ってけしからん!なんてのは、
いつの時代もいわれているのかもしれません。)
締めの言葉がちょっとインパクトなうえ、全体的に情熱がほとばしり過ぎですが、
目を細めて読んでみれば、
80年前の工芸を志す若者の素直な気持ちが伝わる文章じゃないでしょうか。
「型をもたぬ。すべて自由に、各人各様の姿態を持つ。」とか、
「懐古趣味」「退嬰(保守的な)」「現状維持」が嫌いとか、
「前進」「躍動」「現状破壊」「未来」が好きとか、
「この瞬間に息づく工芸美術を作れ」なんて、
今の新しい表現をしようとする若者と大差ない思いじゃないかなと。
では、高村達がこんな過激に批判し、
それこそ死んで欲しいとまで思った当時の工芸とは、
いったいどんなものだったのでしょう?
なんだか長くなりそうなのと、ぼくが眠そうなので、続きはまた。

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一本の釘。

いつからだったか、いつまでだったか、明日への希望や、
将来の夢を会社の成長と重ね合わせることのできた時代があったという。
個を支えたのが会社への帰属感や、終身雇用といった制度だったのは、
ほんの僅かな特殊な期間だった。
今は派遣やアルバイト、期間労働などの雇用形態のなかで、
繋がりを失った個が、
誰とでも代替え可能な自分を否応なく受け入れ、
又は拒絶して孤独や無力感を深めていく。
かつてアーツ・アンド・クラフツ運動を主宰したウィリアム・モリスは、
産業革命以後の機械化による大量生産時代の渦のなかで、
消えゆく手仕事における「働く喜び」を説いた。
彼に決定的な影響を与えたジョン・ラスキンは、
その著『ヴェニスの石』で、機械化、分業化の果てに、
「分割されたのは労働ではなく人間だった。
 生命の小破片と屑片とに粉砕されたのだ。
 だから、人間のうちに残された知性の小片のすべてをもってしても、
 一本のピン、一本の釘の頭をつくることで消耗してしまう。」
と書いた。
つまりラスキンは、分業化が進むと、
人は一本の釘の全体をつくる能力すら失われ、
釘の頭の部分しかつくれなくなるということを懸念したのだ。
この話に例えられた人間の総合的な能力の喪失が、
労働における創造性や喜びを奪い、
労働のなかで自分を自分たらしめる重要なものを奪い取った。
「労働者の堕落によってしか得られないような便益、美、安価を
 断固と投げうち、健全で人を高める労働の生産物と成果とを、
 同じく断固と求めることにある。」
ラスキンの願はモリスにより実践され、アーツ・アンド・クラフツ運動になり、
かたちを変えながら世界中に広がっていった。
これが起こったのは、100年以上も前のこと。
ラスキンの願いむなしく、
今や多くの労働はマニュアル読んで、明日からでも、どなたでも、
どんな職種もOKの時代。
労働ばかりじゃない、忙しい現代人は仕事以外も効率化、
電話もTVもメールもカメラも音楽もGPSも、
なんだって手の平のなかに収まるそうで、
便利なことは良いコトだなんて思っていたら、
生活すらも自分を自分たらしめるものは無くなりそう。
僕や君が今思いついた最高のアイデアや名文句は、
そいつでちょいと調べてみれば、もう誰かが思いついているし、
そいつの画面の喜びも悲しみも世界中(先進国という)が一斉に感じてる。
べつに僕や君が居たって居なくたって、
みんなの知ってることも感じることも大差はない。
お山の大将でいることなんて出来やしないし、
もの知りじいさんでもいられない、ユニークなんて過去の話。
ケイタイやコンピューターで繋がり合い、
知識や体験が、言葉や映像で共有されていく。
君に伝えたかった言葉は、
いつのまにか誰かに届けばよくなって、宙ぶらりん。
画面の向こうの誰かなんて、ほんと誰でもよくなってしまうのかも。
しかしなんだね、あの手の平サイズの夢の機械は199ドルだとか。
叶えた夢の多さからすると、ちょっと安すぎやしません?
何を犠牲にすると、こんな値段で採算とれるんだろう?
もしかして、誰かの夢や希望なんてことはないだろうね。

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