昨日、新聞を読んでいて思い出したことがあった。
目の前には自分の「夢」しか見えなくて、
自分の周りのことことなんて目にも入っていなかった頃。
引っ越して来て、まだここ(中野市)に馴染もうなんて思ってもいなかった頃のこと。
近所に住むおばあちゃんで、よく話しかけてくれる人がいた。
僕が草刈りしている時や仕事中の工房をのぞき込んだりして。
おばあちゃんは少しぼけ(認知症)ていて、散歩が日課で、話を聞くと僕の祖母の友人だという。
「ミノルさんの子かい?」
「いや、ミノル(祖父)の長男のタカオ(父)の子どもだよ」
「ああそうかいタカオちゃんの子かい。で、何やってるの?」
「木のおもちゃを作ってるんだよ」
「ああ、そりゃいいや、手に職があるのが一番いい」
「そうかもね、どうもです」
「マスコばあちゃんは元気かい?このごろ来ないね。
あんたのとこは皆で(中野を)出てっちゃったからね、寂しいね。
私んとこのも越谷(埼玉県)に住んでるの」
「みんな都会がいいって、出ってちゃった時期があったんだね」
「田舎はどうだい?寒いでしょ」
「たしかに寒いけど、空気はいいしものを作るにはいい環境だよ」
おばあちゃんはこのくだりでいつもにこっと微笑んだ。
「そうだ、たくわんいるかい?」
いつも沢庵かお菓子をくれた。
僕はおばあちゃんとこの会話を何度したかわからない、
「ミノルさんの子かい?」会う度に何年も同じ会話をしていた。
僕がいそがしくなったからか、おばあちゃんが散歩しなくなったからか、
だんだんとこの会話もしなくなっていった。
誰からか亡くなったことを聞いてからは、よく話をしたことさえ忘れてしまっていた。
昨日の新聞の記事は『ロボットとの対話』~認知症の人の助けに~というもの。
音声認識機能を持つテーブルに載るぐらいの小さなロボットが認知症の人と会話をする。
「○○さんちょっといいですか」
「○○さんは今日もデイサービスにいくんだよね」
「出掛ける前にトイレに行っておいたらどうかな」
チャイムが鳴ると、
「○○さん、誰か来たみたいだから玄関に行ってみたらどうかな」
段階を経ながら、情報が理解されたかを「分かったかな」と問いかけて、
返答に応じて次の行動を促す。
97歳の軽度認知症の女性が使用した実験で、
注意喚起、情報喚起、情報伝達とも90%以上の成功率だった。
ロボットは決められた言葉を話すだけだが、呼びかけられた人の反応は一様ではなく、
「ぼくちゃんが言ってくれるなら行くわね」などの言葉もでてくる。
認知症の人にとってこのロボットは、自分のことを気にして声をかけてくれる存在だ。
(信濃毎日新聞夕刊、12月14日 要約)
ああ、これはあるなぁと思った。
読んだ後に思い出したのが上記のおばあちゃんのことで、
僕とおばあちゃんの会話は、おそらくロボットとでも可能になるんだろうと思った。
僕とおばあちゃんの共通の話題は、僕の祖母、手に職、ここ(中野市)のことだけだった。
もしもおばあちゃんが歌舞伎が大好きだったらどうか、僕は全然知らないが、
ロボットならスラスラと役者の名前を言わせることくらい簡単だろうし、
ネットでニュースを検索させて「○○さん、海老蔵ってやんちゃですね」程度の
気の利いた(?)会話ぐらい可能になるかもしれない。
おばあちゃんが「あの演目の、ほらアレよ『義経千本桜』のアレ、あの人」といえば、
「○○さん、それは佐藤忠信ではありませんか」とロボットがかえし、
「そう!忠信狐の宙乗りがまた見たいわ」と会話が弾んでいったなら、
僕と話すよりもっと笑顔が溢れたかもしれない。
想像してみる、自分の肉親が1人で暮らし1日にひとことも話をしない日のことを。
想像してみる、ロボットが話し相手になり、笑顔がこぼれる日のことを。
パターン化された会話でいいなら(たぶんいい)今すぐにでも
製品化できるのだろう(もうあるのかな)。
ロボットとの会話の中で○○さんが欲しいと言ったものを、
ロボットがネットを通じて近くのコンビニやスーパーに連絡を入れる、
コープデリの配達リストに登録されていくようになる。
企業が動けば(儲かるシステムができれば)、
あっという間にこうした環境が構築されるかもしれない。
ドラえもんは子どものところではなく、おばあちゃんのところに現れるのだ。
ドラえもんの話でさえ賛否がある程度に、いいことなのかどうか?僕にはわからない。
ただ、ありえることだとは思う、すぐそこの未来に。
いつか僕が死ぬ日が来た時、娘達が遠くで暮らしていたのなら、
迷惑かもしれないが、僕の声でしゃべるドラえもんを
僕は妻のために押し入れに隠しておくかもしれない。
いっしょに見た、たくさんの「夢」を白いポケットに入れて。
葬式も終わり、親戚も引き揚げて、四十九日を過ぎた頃がいいだろうか。
「ああ、またおじいさんの分も朝ご飯つくってしまったわ。お茶はひとり分でいいわね」
カチッ、やかんを火にかけて、仏壇にご飯を運ぶ。
「お仏壇のお供えが毎日たくさんね」
チ~~ン。
「おじいさん、天国でもお腹はすきますか?
こちらは雪が降っていますが、天国にも雪は降りますか?」
「最近、ひとり言が増えたなんてお友達にいわれるけど、これもひとり言っていうのかしらね」
「イワナインじゃないかな・・・」
・・・。
「えっ!・・・何?・・・」
やだ、お空にいるおじいさんに話しかけていたら空耳なんて、フフフ。
カタ、ガタッ、ガタガタ!
あら、二階で物音がする・・・空耳。
「誰かいるの?」
「ボくだよ」
押し入れの扉を開けると、そこにはドラえもんが座っている。
「ぼくドラえもん、これからどうぞよろしくね」
「あら可愛いい、でもおじいさんの声なのね、あなた」
ドラえもんは外を見て「雪が奇麗だね」。
「そうね山もまっ白だわ。ああ、あなたお腹は空いてない?」
「そんなことより、やかんの火は大丈夫?」
「あら、や
'10.12.5
昨日、友人の結婚式に行きました。
長野に移り住んでから友人になった新婦と、その後友人になった新郎との結婚式!
よく知った2人の結婚式だからワクワク、ソワソワ。
2人の出会った頃や、プローポーズ、式までの道のりを知っているだけに感動的な式でした。
結婚式に参加したことはそれほどないのだけれど、
娘が生まれすっかり父親になった僕は、式を父親目線で見てしまうようになったようです。
僕が涙してしまった場面・・・。
それは新婦のお父さんの号令による万歳三唱!!!
バンザーイ!、バンザーイ!、バンザーイ!
空に向けて高く挙げられた父親の両手・・・。
娘を初めて抱いたその両手、
歩けるように支えた手、洗ってやった髪、
押してやった自転車、シャッターを押しまくった運動会、
励ました肩、叩いた頬、見送った背中、
それでも決して心の中でその両手を放すことなんてなかった。
放したくなんかない、渡したくなんかない、
でも、放すなら今しかない、自分もそうして渡してもらったように。
万歳だ!・・・い~や万歳なんかじゃない・・・いや万歳だ!!
会場にいる100人の手を借りた万歳三唱の勢いで、
父の両手がどうにか空に放り投げた「想い」を、
新郎の挙げた両手が受け止める。
新郎の友人である僕ですが、
この時ばかりは新婦の父と心の中でがっちり握手しました。
さて、僕は式のために2人の希望で名札スタンドを作りました。
切りっぱなしに無塗装でいいとの話だったのですが、
作り始めると面取りして塗装しないと気が済まなくなり、
100個とちょい、心を込めてプレゼントしました。
自分の得意なことで友人の式に花を添えられるのは嬉しいものです。
よい式に参加させてくれてありがとう!
どうかその手を放さぬよう、いつまでもお幸せに!!