2007年01月 一覧

突っ走るぜ、あしたも、たぶんあさっても。


エレファントカシマシのアルバム「明日に向かって走れ -月夜の歌-」の
「明日に向かって走れ」の出だしの歌詞です。
今日、高校の時の同窓生が電話をくれた。
木のおもちゃを調べていたら、ぼくの名前を発見したとのこと。
同姓同名かと思ったけど顔が「たけじ」だったらしい。
衝動的に電話をしたってのが、いかにもヤマちゃんポイなぁと思った。
懐かしい声で、なんだか高校の時を思い出して楽しいひと時だった。
ヤマちゃんは憶えているだろうか、
ぼくが教科書のはじなんかに描いていたラクガキを褒めてくれたことを。
たしか「お前の絵のファンになった」みたいなことを言ってくれたんだよなぁ。
あれすごく嬉しかったんだよ。
たぶんぼくの作品の最初のファンはヤマちゃんなんだろうと思う。
覚えていればだけど。
あれから10年以上たって変わったことも沢山あるけど、
あの時があって今があることは変わらない。
青春じゃない、いいじゃない。
ヤマちゃんは、外国で新しい事業をはじめるとのことで、
「突っ走る覚悟をしたところ」ってのがカッコイイじゃんか。
ぼくも、まだまだ突っ走るぜ、あしたも、あさっても。
「この世はいつだぁ~て、突っ走るだけさ~♪」

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エーリッヒ・フロム

今日はブログを2つ書きました。
というのも、Pananaさんのコメントを読んでとても感動したからなのです。
この感じは、あれのことじゃないのかと、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本を引っぱり出してきて、
付せんのはってあるページを読み返しました。
18歳の時の自分が引いた線を目で追いながら、
あの時はまだ、ほんとうには理解していなかった「愛」について分かった気がしました。
Pananaさんのコメントを読んで、
「親」になるとは、まさに「愛するということ」を知ることなのだと思いました。
すごくステキなコメントなので興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。
以下に転載させて頂きました。
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ずっとずっと、なんだかモヤモヤしていました。
3人の子どもに恵まれた私がコメントしてもいいのか、喜びに浸っている中川夫妻の気持ちに水を差してしまわないか、ずっと迷っていました。
今もドキドキしながら書いています。
どうして神様は赤ちゃんの誕生を待ち望んで、きっと素敵な親になるような人に子どもを授けないで、邪険にしたり、虐待したり、殺してしまうような人に子どもを授けるのかな、と時々、考えることがあります。
以前、知人が「子育てに免許があったら、免許をもっていますか?自動車学校のようなものがあったら、自分はどの段階ですか?」と尋ねたことがありました。
実は知人夫妻は9年間の不妊治療の末、治療をやめて、養子をもらう決心をしたそうです。
私がその質問を受けた時には既に、その子どもさんも保育園に入っていました。二人の子どもさんを受け入れたのですが、うちの子供と同じ年頃なので、今は、思春期真っ只中です。
小さい時から知っていて、てっきり血の繋がった親子だとばかり思っていたので、養子と聞いた時には驚きましたが、お二人が「授かること」より「育てていくこと」を選ばれたことに感動しました。
その子達が今、両親の光を受けて、幸せに立派に育っているのを見るたびに、ご両親の決心がなかったら、この子達はどんな人生を送っていたのだろう、と考えます。
命を授かること、それはとても素晴らしいことです。
でも、それに固執するのは大人のエゴのように感じるのです。
昔なら「多子児」になっていた体外受精での不妊治療。
今は、胎児を選べるそうですね。
遺伝子だけを受け継いで代理出産される子ども。
子どもはそんなにしてまで「生んで欲しかった」のかな?
親殺し、子殺しが頻繁に報道される中で、「出産」だけが全てではないなって感じるのです。
いかに育てるか、いかに子どもに幸せを感じさているか。
それが親としてできることじゃないかな?って感じるのです。
上記の知人夫妻は立派な「親」だと思います。
遺伝子を受け継がせた親達より「親」をしていると思います。
3人の子どもを育ててきて、子育ての素晴らしさを感じます。
と言っても、ノイローゼになりかけたことも、もう要らない!と思ったこともあります。
キャリアを諦めたり、経済的な負担がかかったり、自分の時間すらなくなったり、色んなものを犠牲にしなくてはいけないかもしれません。
でも、私は、それであっても、こんな素晴らしいことを多くの人に経験して欲しいと思います。
子どもから沢山のことを学んだり、無償の愛情を受けたり、自信と勇気をもらったり・・・・。
でも、それは「出産」でなくても、今、愛情を求めている子ども達からでも受けられるんじゃないかって思うのです。
「生む」こと以上に「育てること」の方が、ずっとずっと時間をかけるに値することではないかな、と感じるのです。
それが、先に感じた神様への疑問の答えのような気がするのです。
| Panana | 2007/01/28 1:42 PM |
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Pananaさんの言う、子育は大変なことはあるけれど
「子どもから沢山のことを学んだり、無償の愛情を受けたり、自信と勇気をもらったり」
できることに素晴らしさを感じるというのが、よいなぁと思いました。
お子さんから沢山のものを与えられたのは、
Pananaさんが沢山の愛情を与えたからなのでしょうね。
エーリッヒ・フロムが本の中で、
「もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。
だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、
その生まれたものは自分にはね返って来る。
ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。
与えるということは、他人をも与える者にすることであり、
たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのである。」
と、書いているのにピタリときました。
「もし愛することが、誰にたいしても愛情豊かな態度をとることを意味するとしたら、
(中略)身内にたいする愛と、赤の他人にたいする愛とのあいだにも、『分業』はありえない。
それどころか、赤の他人を愛することができなければ、身内を愛することはできない。」
養子を迎えられたご夫妻は、真に愛情深い方達なのでしょうね。
「生む」こと以上に「育てること」に「愛」を見いだすことは、
現代に置いては重要なことかもしれません。
「愛するということ」は1956年に出版されました。
マルクス主義的な立場から書かれているところに時代を感じるものの、
50年以上も前に書かれた本でありながら、その内容は色褪せることのないように思えます。
フロムは本の最後にこんなことを書いています、
現代社会の「人々の目的は、もっと多くを生産し、もっと多くを消費することだ。
それが生きる目的になってしまっている。
全ての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。
いまや人間はロボットである。
おいしいものを食べ、しゃれた服を着てはいるが、
自分のきわめて人間的な特質や機能にたいする究極的な関心をもっていない。
(中略)
もし愛が、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の健全で満足の行く答えだとしたら、
愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、
やがて滅びてしまう。
(中略)
愛の性質を分析するということは、今日、愛が全般的に欠けていることを発見し、
愛の不在の原因となっている社会的な諸条件を批判することである。
例外的・個人的な現象としてだけではなく、
社会的な現象しても、愛の可能性を信じることは、
人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。」
今日はあれこれと思い出しながら、「親」になることについて考えさせられました。
Pananaさん、心のこもったコメントありがとうございました。
神様への答えはそれが正解なのだと、ぼくも思います。
少子化の問題や不妊治療のこと、もう少し考えてみようと思います。

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安産祈願!


ちょい前に善光寺さんには行ったばかりなのですが、
また行ってきましたよ。
初詣の時は2人のコトをお祈りしたけれど、
今回は3人のコトをお祈りしてきました。
まぁ、主に1人のコトになりますけどね、無事に生まれてきてねって。
お守りなんて買ったことなかったけど、買っちゃいますねぇ、
お賽銭もはずんじゃいますねぇ。
自分のコトより真剣に、そういうもんすね。
そういえば初詣の時に引いたおみくじ、
ぼくは末吉だったのだけど、彼女は大吉だった。
やっぱこのコトだったのですね。

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