2009年10月 一覧

秋祭り。

少し前に、ぼくの住んでいる吉田地区の秋祭りがあり、
そこで獅子舞を見た娘が、朝から晩まで獅子舞ブームになってしまいました。
あまりに楽しそうなので、先日同じ中野市の赤岩地区の秋祭りを見に行ってきました。
民間信仰のちょっとしたマニアのぼくの父のおススメだったのですが、
予想よりはるかに良いお祭りでした。
実のところ、ぼくはこういった祭りを見る目はけっこうあります。
民族学的にどうとかいうことではなく、単純に「うまい」とか「美しい」とか分かるだけですが。
というのもウチの両親はアマチュアで民俗学研究をしていて、
母などは、いちおう学会で論文を発表する程度に活動をしています。
よって、子供の頃のぼくと兄は、その趣味につき合わされて、
全国各地いろんなお祭り連れ回されました。
お祭りといえば普通は「楽しそうじゃン!」と思うかもしれませんが、
屋台が出てワッショイワッショイというお祭りとは違って、
地味だし、無用に長いし、小さい兄弟にとってはつまらな過ぎて死にそうでした。
ただ、その土地土地にれんめんと受け継がれ、
素朴な祈りが込められた祭りがあるという事実は、ぼくや兄にとって普遍的事実ではありました。
そんなお祭りを、何の因果か娘が見たがるとは、不思議なもんです。

 

ちいさい頃から、齢三十をすぎるまで、
一般的にいえばマニア的に祭りを目にしてきたぼくの感じでは、
若い人たちにしっかりと伝承されている地域では、
全体に緊張感があり、場の空気も張りつめます。
そういう祭りはエンターテイメントとして意外な程面白いし、
芸術として見てもスゴかったりします。
宮崎駿の映画などの影響か、「日本は八百万の神の国」だから
特定の宗教を強く信仰しない(しなくていい)
特異な国だなんてなことを一般的にもいわれるようになりました。
ぼくは、こんないい方にちょっと違和感を感じます。
巨木信仰にしろ、ちょっとした道祖神にしたって、
どんな八百万の神様達もただいるのではなく、
実際には誰かの信仰心や、具体的な行動によって支えられています。
祭り自体は、豊穣を祈ったり感謝したりと、1年という時間を表します。
祭りの中心となるのは青年たちで、それを見守るのはかつての青年である老人たち、
太鼓や踊りで子供たちも参加すれば、神社の舞台には人の一生が映し出されます。
そして、それが永遠に続いていくであろうという実感や具体的な場が、
祭りに参加する人たちに安心と居場所を与えてくれます。
赤岩の祭りが美しいのは、そこに集う人々の心の現れ。
国道沿いを中心に生活はますます単純化され、
液晶画面を覗いていれば全てが分かったような気になってしまう日常の中で、
複雑な自然の一部である人間の精神は、拠り所を求めさまよいます。
地域や会社や家族すら不確かになり、
不安を消費やテレビでごまかせたあの日は、まだ幸せ・・・。
誰だってそう、自覚的に無自覚に何かにすがって生きていて、
スピリチュアルもヨン様も、もしかしたらエコだって、つまるところは根は同じ。
動物としての人は科学的、経済的、合理性にのみ生きることはできないから、
今後ますます、このような祭りが大切になっていくのかな。
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上出恵悟 個展『美術と工芸』

昨日、長野市のギャラリー桜華書林に、上出惠悟さんの個展見に行ってきました。

案内状の写真から伝わってくる「何かスゴいもの」と、
『美術と工芸』という、ぼくにとってはなかなか刺激的な題名に魅かれました。
 

 

 
いバナナ?
不思議な魅力のそれは、九谷焼のバナナです。
植木?どこからが作品 ?
植木鉢、剪定ばさみ、これらも九谷焼。
蛍光管も九谷焼。
『空』と題された箱(普通は陶芸作品を入れる桐の箱)も九谷焼。
作品を眺めていると、陶芸という概念が揺らぎはじめ、
磁土という素材の美しさに、改めてハッとさせられます。
九谷焼の伝統や技が(工芸が)サンプリングされた音楽のように扱われ、
ポップミュージックのなかにクラシックがサンプリングされ、新しい音楽に生まれ変わるように、
新しい工芸の表現と伝統が融合しています。
それにしても尖った表現ですね~、
美術好きであれば、デュシャン?って思うんじゃないでしょうか。

九谷焼の窯元に生まれ、東京芸大で学んだ上出さんの作品は、
美術と工芸の間をさまよいながらも軽々と繋ぎ合わせてみせます。
なぜ九谷焼なのか?生まれながらにして、その問いを必要としない運命と、
美術を志向する本能がせめぎあう、ヒリヒリするような作品でした。
マルセル・デュシャンの『泉』(既製品の男性用便器にサインをし倒した状態で展示した)、
がそれまでの美術(美術館という制度による美術)の価値を転覆させて、
笑ってみせたのに対して、
上出さんのバナナは、美術に対する工芸の価値(一般的な評価による)を
転覆させるものじゃないでしょうか。
もし、単なるデュシャンの焼き増しであるならば、
上出さんの本業であるところの窯元(上出長右衛門窯)自体を
否定することになってしまって、あんまし笑えないじゃんと。

以下、上出さんの案内状より。

「美術とは概念であるから、理想的なかたちをしている。
工芸とは手業であるから、現実的なかたちをしている。
理想を求めて工芸は美術を志すが、美術性は得られたとしても美術には成れない。
工芸には背負うべき大きな制約があり、それに対して美術には制約が何一つ無いからだ。
しかし制約があるからこそ工芸は工芸として存在し、自らの強度を高める。
私は九谷焼という工芸を素材とし、その制約を引き受けるということを作品としている。」

なるほどな~、と思います。
考えの明解さが、作品に見る切れ味の根源なんでしょう。
「制約を引き受ける」という言葉の強さは、
選んでそうする工芸家と、選ばずともそうある工芸家の違いを感じさせます。

上出さんと話せたので、うえの考えを受けて質問してみました。
「美術と工芸の違いは制約とありますが、その制約を具体的にいうとどんなことでしょう?」
「美術はコンセプトなどつくりたいものから発想し(素材を選び)ますが、
工芸は素材から発想するところです。」

なるほどな~、工芸家であれば、納得の答えじゃないでしょうか。
上出さんと話している間、何度も家業である上出長右衛門窯に力を注いでいると
言っていたのが印象的でした。
工芸家になった人からすると、
生まれた家が窯元というのはなかなか楽しそうと思いますが、
生まれついた人はどう思うもの

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十五夜、お月さん。

昨夜は、十五夜でしたね。
中野にも、キレイなまんまるお月さんが顔を出してくれました。
うちでは娘も手伝って、お月見団子をこさえましたよ。
きな粉をまぶしたお団子は、ちっちゃな黄色いお月さん。
黒蜜をかけたお団子は、夜空に浮ぶ輝くお月さん。

 

お団子作りを手伝う娘の姿を見ていて、ふと気づく。
「手伝う」って、手で伝わるって書くんだなぁと。
あっちこっちまっ白にしながら、団子を丸める小さな両手は、へたっくそ。
おばあちゃんがコツを教えて、お母さんのマネをして、手から手へ伝わっていく。
子供は手伝いながら成長して、それをまた次の世代に伝えていく。
「手伝う」っていい言葉ですね。
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