ちょっと見て来た 一覧

ヘルシンキ観光。

グループ展を開催したヘルシンキは、町の至る所に観光スポットがあり、
ホテルからギャラリーへ行く途中途中で観光ができます。
まずは宿泊したホテルのすぐ側にある『岩の教会』こと『テンペリアウキオ教会』です。
外からひっそりしていて、協会あるの?ってな感じ。
入り口でグッと暗くなった後に、中央の広間に入るとパッと明るくなります。
岩をくりぬいたかのような内壁の無骨さと、
円形で格子状の天窓の軽やかさがいいあんばいで、神々しかったです。
女性の騎兵隊?観光のためかな。
ギャラリーの側の花屋さん。
『コケシスター』に生ける花をかったのですが、
切り花より鉢植えの花が主流のようで、あまり選べず。
日本では切り花が主流だと思うので、文化の違いかな。

ヘルシンキは海辺の町なので、ギャラリーから2、3分も歩けば海岸に出られます。
海に面して『マーケット広場』が開かれています。
ヘルシンキの人々の台所ということなんでしょうが、実際は観光客がメインといった感じかな。
市場の割には以外と価格が高いような・・・美味しそうですが野菜はどれもいいお値段。
簡単な軽食ならいろいろと揃っていて、この日はここで昼食に。
アイスはどこで食べても美味しいものです。
ギャラリー周辺だけでも結構観光スポットがあり、
展示と観光を同時に楽しめて一石二鳥といった感じでした。
まだまだ観光は、つづきます。
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YOHJI YAMAMOTO 

個展で東京に行っていた4月1に、代々木体育館で行われた、
ヨウジヤマモトのファッションショーを見ました。
山田節子さんに「いい席の招待券があるから行ってみない?!」と誘われて、
ほとんどの人がそうかと思いますが、
ファッションショーなるものに行ったことがなかったので、興味津々行ってきました。
フッションにうといぼくですが、初体験ということもあり、えらく感動しました。

招待席はモデルさんが歩く通路のすぐそばで、服の素材感までよく分かります。
モデルといっても、ほとんどがいわゆる著名人で、
トルシエ監督、ムッシュ・かまやつさん、映画監督のSABUさん、椎名誠さんなどなど、
パッとみで個性が強い(すぎる)人物達が歩いて行きます。
服に着られるでもなく、服より前に出過ぎるでもなく、
服と人物が調和しつつ、緊張感をもって、舞台は観客を魅了します。

とても華々しい表現の世界に触れて、
美術や工芸などのマニアックな世界にはない、
沢山の人たちにうったえかける魅力について考えさせられました。
世界にはまだまだ学ぶことが沢山ありますね。
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上出恵悟 個展『美術と工芸』

昨日、長野市のギャラリー桜華書林に、上出惠悟さんの個展見に行ってきました。

案内状の写真から伝わってくる「何かスゴいもの」と、
『美術と工芸』という、ぼくにとってはなかなか刺激的な題名に魅かれました。
 

 

 
いバナナ?
不思議な魅力のそれは、九谷焼のバナナです。
植木?どこからが作品 ?
植木鉢、剪定ばさみ、これらも九谷焼。
蛍光管も九谷焼。
『空』と題された箱(普通は陶芸作品を入れる桐の箱)も九谷焼。
作品を眺めていると、陶芸という概念が揺らぎはじめ、
磁土という素材の美しさに、改めてハッとさせられます。
九谷焼の伝統や技が(工芸が)サンプリングされた音楽のように扱われ、
ポップミュージックのなかにクラシックがサンプリングされ、新しい音楽に生まれ変わるように、
新しい工芸の表現と伝統が融合しています。
それにしても尖った表現ですね~、
美術好きであれば、デュシャン?って思うんじゃないでしょうか。

九谷焼の窯元に生まれ、東京芸大で学んだ上出さんの作品は、
美術と工芸の間をさまよいながらも軽々と繋ぎ合わせてみせます。
なぜ九谷焼なのか?生まれながらにして、その問いを必要としない運命と、
美術を志向する本能がせめぎあう、ヒリヒリするような作品でした。
マルセル・デュシャンの『泉』(既製品の男性用便器にサインをし倒した状態で展示した)、
がそれまでの美術(美術館という制度による美術)の価値を転覆させて、
笑ってみせたのに対して、
上出さんのバナナは、美術に対する工芸の価値(一般的な評価による)を
転覆させるものじゃないでしょうか。
もし、単なるデュシャンの焼き増しであるならば、
上出さんの本業であるところの窯元(上出長右衛門窯)自体を
否定することになってしまって、あんまし笑えないじゃんと。

以下、上出さんの案内状より。

「美術とは概念であるから、理想的なかたちをしている。
工芸とは手業であるから、現実的なかたちをしている。
理想を求めて工芸は美術を志すが、美術性は得られたとしても美術には成れない。
工芸には背負うべき大きな制約があり、それに対して美術には制約が何一つ無いからだ。
しかし制約があるからこそ工芸は工芸として存在し、自らの強度を高める。
私は九谷焼という工芸を素材とし、その制約を引き受けるということを作品としている。」

なるほどな~、と思います。
考えの明解さが、作品に見る切れ味の根源なんでしょう。
「制約を引き受ける」という言葉の強さは、
選んでそうする工芸家と、選ばずともそうある工芸家の違いを感じさせます。

上出さんと話せたので、うえの考えを受けて質問してみました。
「美術と工芸の違いは制約とありますが、その制約を具体的にいうとどんなことでしょう?」
「美術はコンセプトなどつくりたいものから発想し(素材を選び)ますが、
工芸は素材から発想するところです。」

なるほどな~、工芸家であれば、納得の答えじゃないでしょうか。
上出さんと話している間、何度も家業である上出長右衛門窯に力を注いでいると
言っていたのが印象的でした。
工芸家になった人からすると、
生まれた家が窯元というのはなかなか楽しそうと思いますが、
生まれついた人はどう思うもの

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