上出恵悟 個展『美術と工芸』

昨日、長野市のギャラリー桜華書林に、上出惠悟さんの個展見に行ってきました。

案内状の写真から伝わってくる「何かスゴいもの」と、
『美術と工芸』という、ぼくにとってはなかなか刺激的な題名に魅かれました。
 

 

 
いバナナ?
不思議な魅力のそれは、九谷焼のバナナです。
植木?どこからが作品 ?
植木鉢、剪定ばさみ、これらも九谷焼。
蛍光管も九谷焼。
『空』と題された箱(普通は陶芸作品を入れる桐の箱)も九谷焼。
作品を眺めていると、陶芸という概念が揺らぎはじめ、
磁土という素材の美しさに、改めてハッとさせられます。
九谷焼の伝統や技が(工芸が)サンプリングされた音楽のように扱われ、
ポップミュージックのなかにクラシックがサンプリングされ、新しい音楽に生まれ変わるように、
新しい工芸の表現と伝統が融合しています。
それにしても尖った表現ですね~、
美術好きであれば、デュシャン?って思うんじゃないでしょうか。

九谷焼の窯元に生まれ、東京芸大で学んだ上出さんの作品は、
美術と工芸の間をさまよいながらも軽々と繋ぎ合わせてみせます。
なぜ九谷焼なのか?生まれながらにして、その問いを必要としない運命と、
美術を志向する本能がせめぎあう、ヒリヒリするような作品でした。
マルセル・デュシャンの『泉』(既製品の男性用便器にサインをし倒した状態で展示した)、
がそれまでの美術(美術館という制度による美術)の価値を転覆させて、
笑ってみせたのに対して、
上出さんのバナナは、美術に対する工芸の価値(一般的な評価による)を
転覆させるものじゃないでしょうか。
もし、単なるデュシャンの焼き増しであるならば、
上出さんの本業であるところの窯元(上出長右衛門窯)自体を
否定することになってしまって、あんまし笑えないじゃんと。

以下、上出さんの案内状より。

「美術とは概念であるから、理想的なかたちをしている。
工芸とは手業であるから、現実的なかたちをしている。
理想を求めて工芸は美術を志すが、美術性は得られたとしても美術には成れない。
工芸には背負うべき大きな制約があり、それに対して美術には制約が何一つ無いからだ。
しかし制約があるからこそ工芸は工芸として存在し、自らの強度を高める。
私は九谷焼という工芸を素材とし、その制約を引き受けるということを作品としている。」

なるほどな~、と思います。
考えの明解さが、作品に見る切れ味の根源なんでしょう。
「制約を引き受ける」という言葉の強さは、
選んでそうする工芸家と、選ばずともそうある工芸家の違いを感じさせます。

上出さんと話せたので、うえの考えを受けて質問してみました。
「美術と工芸の違いは制約とありますが、その制約を具体的にいうとどんなことでしょう?」
「美術はコンセプトなどつくりたいものから発想し(素材を選び)ますが、
工芸は素材から発想するところです。」

なるほどな~、工芸家であれば、納得の答えじゃないでしょうか。
上出さんと話している間、何度も家業である上出長右衛門窯に力を注いでいると
言っていたのが印象的でした。
工芸家になった人からすると、
生まれた家が窯元というのはなかなか楽しそうと思いますが、
生まれついた人はどう思うもの

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