2009年 一覧

集中。

KEKRMDさん、コメントありがとうございます。

風邪などは引いておらず、単に作品の制作に集中していました。
寄木の作業だけで気が遠くなるくらいの工程があり、
春夏秋冬季節は巡り、ようやく削り出している最中です。
非常に緊張する局面の連続、当然失敗は許されないわけで、
冷や汗は出っぱなし、何かをすり減らし、胃がきしむ日々です。

ただしかし、楽しい!楽しすぎる。
もてる力200%フル稼働、木の神様の力も借りて削っております。
生まれてきてよかったです。


思った以上に難しいところがあり、予定を遥かにすぎてしまっていますが、
来年の早いうちにKEKRMDさんにも見てもらえるはず。
その日を楽しみに、明日も削りまくります!

今年は年末に引っ越しも控えていたり、
テイクジーのビジュアルデザイン担当の奥さんが、
訳あっていそがし過ぎるため、
恒例のクリスマスカードや年賀などお休みさせてもらいそうです。
ぼくが全てをやればいいのですが、
今のぼくはこの作品から手を離すことができません。
クリスマスカードの分は作品の出来でお返しできればと思いますので、お許し下さい。
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アイ・ウェイウェイ展

先日、六本木の森美術館で開催中の『アイ・ウェイウェイ展』に行ってきたので、感想など。
アイ・ウェイウェイは中国を代表する現代美術のアーティストで、
世界でも最も注目されている作家の1人。

 
(館内写真撮影可、全てアイ・ウェイウェイの作品)
いちばん下の写真は『フォーエバー』と題された自転車を円形に繋ぎ合わせた作品。
中国の国民的自転車メーカー、フォーエバー(永久)社の自転車を使用。
急速に自動車中心の社会に変化している中国で、
永久と車体に書かれた自転車が組み上げられた作品は、
自転車の「永久」について問い、自動車社会の「永久」もまた問う。

中国の今をありのまま提示することで、世界の中の中国をどう理解し、
どう理解されるのか?そのこと自体がアイ・ウェイウェイの作品なのだと思った。

ぼくが気に入った作品は展示最後の『童話_椅子』という映像とインスタレーションの作品。
(暗かったので作品の写真はなし、気になる方はグーグルの画像検索で)
これは2007年にドイツで開催されたアートフェア「ドクメンタ21」で、
1001人の中国人と1001脚の清時代の椅子を展示した『童話』プロジェクトの
準備から展示終了までをドキュメント映像にまとめた作品。

中国各地の1001人をドイツに招き、展示会場に仮設した宿泊施設に寝泊まりしてもらう。
泊まるのがホテルでなく展示会場だというだけで、単なる団体ツアーと言ってしまえばそれ。
これと清時代の椅子を1001脚集めて、会場のあちこちに展示した。
特に何かを作ったわけではないが、中国全土から参加者を募り、
老若男女の参加者の大半が少数民俗の農民ということもあり、
1人1人のパスポートの面倒から、スケジュール管理、椅子の補修など、
時間とお金がまったく足らないといった感じ。
美術作品の制作とは無関係に見える裏方の仕事をまとめあげるのは相当に大変そう。

映像は実際に清時代の椅子に腰掛けて観ることができ、
中国とドイツを小旅行したようで楽しかった。

さて、この作品のぼくの思うポイントは2つ。

1001人は何を問う?

美術、特に現代美術に価値を見いだすのは「近代」化された国、
つまり西欧の価値観でものの善し悪しを判断する国の人だということ。
もっと簡単にいうと『ミシュランガイド』をありがたがってしまう国の人である。
今まさに西欧化されつつある中国の人々、特には農村の人々が現代美術の作品そのものになる。
つまり現代美術の価値など理解しえない人々が作品そのものとなり、
理解される側に回るのである。
極端にいえば、「美術なんてどうでもいい人」と
「美術を理解したい人」が互いに見られ、見る関係になってしまうのだ。
そしてその関係は、社会の枠組みが変われば(もしかすれば展示される場所が変わるだけで)、
逆転してしまうかもしれない。
裸の王様はどっちだという作品である。

1001脚の椅子は何を問う?

椅子は人間が生み出した道具の中で、特異な存在だ。
人の仕事や食事、休息の姿勢を支えるだけでなく、時に権威を支え、
社会・文化の変革を潜在的に支える。
多木浩二著『「もの」の詩学』にこうある。

西欧が近代化を世界中ににひろめたとき、椅子がほとんどの非西欧世界に浸透し、
それらの土地にあった民族的な座法を変えていったことはよく知られている。日本
の文明開化を考えてみればよい。西欧文化を受け入れることが近代化であったか
ら、椅子とテーブルの生活が実質的にはまだ「近代化」していない社会に入り、椅
子とテーブルにともなう新しい身体技法がこれまでの伝統技法とのあいだに差異を
生じたので、それにもとづく記号機能を発揮したのである。これはその社会(明治
社会)が近代社会を目指していたから、家具および新しい立居振舞が近代性をあら
かじめ示す情報(記号)になった例である。

ちゃぶ台を捨て、畳を上げ、椅子の生活を取り入れていった日本の近代化。
それは、まことにすみやかに受け入れられていったように見える。
畳に座ることと、椅子に座ることには本質的な優劣はないはずなのだが、
近代化が西欧化であり椅子に座ることだったということ。

それに対して中国はもともと椅子の文化であり、独自のスタイルをもった椅子が存在している。
どちらが近代化しやすいかといえば、前者の日本なのだと思う。

経済発展の原動力はものをつくり売ること、ちゃぶ台を捨て椅子を買うことは、
新しい家を買うこと、山を崩してニュータウンをつくることに繋がっていく。
新しい暮らしと、古い暮らしの分かりやすい記号があれば、人やものの流れが作りやすい。

日本に対する中国の近代化の遅れは、もろもろの政治的要因や、
中国語(漢字)の英語との親和性のなさ(例えば日本語はニュータウンなどカタカナでやくせる)
と同じように、西欧的な暮らしという記号の曖昧さがあるのかもしれない。

とわいえ、ドキュメント映像の中で、とある田舎の村の参加者の人々が、
「海外に行って、外人と結婚して帰ってくれば、この村にもレンガの家が建つわ」
というような、憧れと希望に満ちた会話をしていた。
(ぼくの親くらいの世代が中高生の頃にこんな会話をしていたんじゃないだろうか。)

近代化された国の六本木のビルの上(森美術館)から見れば、
彼女たちの村は必然的に統一感をもった木造の家が立ち並ぶ、のどかな風景の美しい農村である。
この村もいつかはレンガの家や新建材の家が建ち並び、
近代化が一周すれば「木の温もりっていいわ」といっているのだろうか。

作品の上映が終わり、清時代の椅子から立ち上がりながらふと気づく、
会場の椅子に腰掛けるぼくもまた作品の一部となり、
見る側、見られる側は、いつの間にか逆転してしまっていたのだと。

そして思い出した。
ニュージーランドに住む兄のところに遊びに行っていた母が、
向こうからぼくの娘に買ってきた誕生日プレゼントはmade in China。
行く時に持っていった兄の子に買っていったプレゼントもmade in Chinaだった。
それぞれニュジーランドと日本のメーカーなのにもかかわらず、
ずいぶんと長い旅をするものだと笑ったこと。

1001脚の椅子が意味するものは何か。
西欧化があまねく行き渡り、
グローバル社会の中で中国がますます重要な国になっていった時、
我々が座っているのは西欧の椅子ではなく、
中国(製)の椅子(全て)であることに気が付くことなのだ。
その時、世界の文化的ヒエラルキーは逆転しているかもしれない。
フォーエバー社の出すガイドブックを手に、
京都の三ツ星レストランで舌鼓を打つのである。

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秋祭り。

少し前に、ぼくの住んでいる吉田地区の秋祭りがあり、
そこで獅子舞を見た娘が、朝から晩まで獅子舞ブームになってしまいました。
あまりに楽しそうなので、先日同じ中野市の赤岩地区の秋祭りを見に行ってきました。
民間信仰のちょっとしたマニアのぼくの父のおススメだったのですが、
予想よりはるかに良いお祭りでした。
実のところ、ぼくはこういった祭りを見る目はけっこうあります。
民族学的にどうとかいうことではなく、単純に「うまい」とか「美しい」とか分かるだけですが。
というのもウチの両親はアマチュアで民俗学研究をしていて、
母などは、いちおう学会で論文を発表する程度に活動をしています。
よって、子供の頃のぼくと兄は、その趣味につき合わされて、
全国各地いろんなお祭り連れ回されました。
お祭りといえば普通は「楽しそうじゃン!」と思うかもしれませんが、
屋台が出てワッショイワッショイというお祭りとは違って、
地味だし、無用に長いし、小さい兄弟にとってはつまらな過ぎて死にそうでした。
ただ、その土地土地にれんめんと受け継がれ、
素朴な祈りが込められた祭りがあるという事実は、ぼくや兄にとって普遍的事実ではありました。
そんなお祭りを、何の因果か娘が見たがるとは、不思議なもんです。

 

ちいさい頃から、齢三十をすぎるまで、
一般的にいえばマニア的に祭りを目にしてきたぼくの感じでは、
若い人たちにしっかりと伝承されている地域では、
全体に緊張感があり、場の空気も張りつめます。
そういう祭りはエンターテイメントとして意外な程面白いし、
芸術として見てもスゴかったりします。
宮崎駿の映画などの影響か、「日本は八百万の神の国」だから
特定の宗教を強く信仰しない(しなくていい)
特異な国だなんてなことを一般的にもいわれるようになりました。
ぼくは、こんないい方にちょっと違和感を感じます。
巨木信仰にしろ、ちょっとした道祖神にしたって、
どんな八百万の神様達もただいるのではなく、
実際には誰かの信仰心や、具体的な行動によって支えられています。
祭り自体は、豊穣を祈ったり感謝したりと、1年という時間を表します。
祭りの中心となるのは青年たちで、それを見守るのはかつての青年である老人たち、
太鼓や踊りで子供たちも参加すれば、神社の舞台には人の一生が映し出されます。
そして、それが永遠に続いていくであろうという実感や具体的な場が、
祭りに参加する人たちに安心と居場所を与えてくれます。
赤岩の祭りが美しいのは、そこに集う人々の心の現れ。
国道沿いを中心に生活はますます単純化され、
液晶画面を覗いていれば全てが分かったような気になってしまう日常の中で、
複雑な自然の一部である人間の精神は、拠り所を求めさまよいます。
地域や会社や家族すら不確かになり、
不安を消費やテレビでごまかせたあの日は、まだ幸せ・・・。
誰だってそう、自覚的に無自覚に何かにすがって生きていて、
スピリチュアルもヨン様も、もしかしたらエコだって、つまるところは根は同じ。
動物としての人は科学的、経済的、合理性にのみ生きることはできないから、
今後ますます、このような祭りが大切になっていくのかな。
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