2011年 一覧

祈り。

昨日はラジオに促されて黙祷をした。

3月11日のあの時を忘れないように。
目を閉じて、犠牲者の冥福を祈り、
あの揺れの恐怖と、あの津波の映像の信じがたさを思う。
まざまざと思い出す恐怖がそこにある。
昨日は彼岸の入りでもあり、仏壇にも手を合わせた。
曾祖母、祖父、叔母と顔を思い出し、先祖達のことを思う。
彼らが生きていた日のことを。
祈るとはそうか、思い出すことだったか。
目を閉じているその間だけでいい、
あの時を、あの人を、思い、忘れないでいることに祈りがある。
千年に一度の地震だという。
だとするなら、千年忘れないでいようと思う。
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カモノハシって。

先日、制作活動のアドバイスをよくしてもらう友人と電話をしていて、
さすがにホームページのリニューアルをしないと・・・、との話しになりました。
たしかにその通りで、「大きな作品」はもう17号まで作り、
現在制作中の作品は18・19・20号になる予定だというのに、
ホームページではいまだ8号で止まってしまっている。
リニューアルしたいのはやまやまなのだけれど、工房のリニューアルに伴う設備投資で、
ホームページは後回しになってしまって、正直まだ余裕なしというところ。

 

とはいえ、きれいにまとまっていなくてもいいし、
撮ってだしの写真でいいから、なんとか全部の作品を見れるようにしないといけないね、
と話しは進みます。
何か方法は無いかと頭をひねったところ、ブログで作品を見れればいいじゃないかという、
灯台もと暗しな(というほどでもないか)意外にグットな結論に。
そうかそうか、既に記事にした作品写真をカテゴリ欄で分けるだけでも、
結構まとまるんじゃないかなと、さっそく分け分け仕分け。
う~ん、速攻で手詰まり。
作品写真を過去の記事から拾うのと同時に、
他の記事もいくつかのカテゴリに分けてみようとしたら、難しい。
分類が少ないと、外れる記事が多くなるし、
分類を多くすると、2つ以上のカテゴリをまたがってしまう記事が出てくる。
「作っているもの」「作っている途中」というカテゴリを作り、
完成品は「作っているもの」、製材や寄せ木などの作業風景は「作っていると途中」に分類。
個展の様子は「こてんこ てん展」にしよう、うんうん分かりやすいと分類作業をしていたら、
完成品の写真は個展の時の写真に含まれているじゃないかと・・・。
じゃあ「こてんこ てん展」のカテゴリはいらないかというと、
個展での出来事だけが書かれた記事もあったりする。
分類って難しい・・・てか分類できない!
哺乳類なの?鳥類なの?爬虫類なの?と聞かれればそれはカモノハシなのであります。
分類は不可能なのであります。(カモノハシは哺乳類)
赤色と青色の間は紫色だとあなたは言うでしょう。
赤と紫の間は赤紫色とあなたは言うのでしょう。
では、赤と赤紫の間はどうか、赤赤紫色と言えるというでしょうか。
ではその間の間の間の間までも分類できると・・・たしかに原理的にはできるかもしれません。
いいでしょう。
ではもっと身近に、人間を男と女2つに分類できるでしょうか。
もちろんできない。
様々な中間的な存在があり、同性愛者、性同一性障害、異性装(女装)など混同しやすいが、
それぞれ違った存在であり、
おそらく個別には同じ呼称で呼ばれていても微妙に違和感を感じていて、
分類しようと思うと間の間の間が無数に必要になります。
さらに言えば「普通に」男性女性と思っている人誰でも、
体内には男性ホルモン女性ホルモンの両方が存在していて、
両ホルモンの量で男性的・女性的な特徴が強かったり弱かったりしています。
多くの人は、ごく赤に近い赤紫だというだけで、誰もが完全な赤ではない間の存在ともいえます。
性同一性障害という言葉の「障害」という部分に違和感を感じます。
健常者と障害者も言葉としては2つに分類されてしまうけれど、
その間の間の間は無限にあり、線は決して引けない。
目に見えるものを言葉にするとスッキリする、理解できたような気がする。
ただそれは、目に見えるものだけを見るようになっただけのことです。
森羅万象を言葉にし理解していくことは、言うまでもなく大切なことです。
それは大前提で、言葉の間の間の間が無限に存在していることは意識していたいです。
芸術と科学の間、科学と宗教の間、宗教と芸術の間。
美術と工芸の間、作品と商品の間、トイとアートの間
プロと素人の間、仕事と遊びの間、楽しいと退屈の間・・・。
いろいろな間を考えていると、
希望と諦めの間が「悟り」ではないかと、ふと思う。
希望と諦めの間にあるのは境界線ではなく、あえて言葉にすれば境界点。
「悟り」が点であるなら、森羅万象を隔て分類する線は消え去る。
ああ、それが悟るってことかと腑に落ちる。
違うかもしれませんけど。
ここで一句。
腑に落ちて 悟ってみたら 落とし穴
気をつけたいです。
分類はする、でも分類はできない!
遅々として進まい記事の分類作業に、
「カモノハシなら分かってくれるのにね・・・、
いやむしろ僕はカモノハシになりたい・・・カモノハシになって哺乳類から脱退します!
そうじゃない、いっそのこと哺乳類を解散して、普通のカモノハシに戻ります!」
とかなんとかブツブツ言い訳しながら現実逃避に脱線を重ねています。
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越ちひろ ドローイング展。

長野在住の画家、越ちひろさんの
ドローイング展『Blood Diamond』を見て感動したので感想など。
今日は長野市の善光寺のそばにあるギャラリー「アートスペース FLAT FILE」に、
仕事の話しで用事があり出掛けました。
ちょうど今日FLAT FILEで始まる作品展が越ちひろさんのドローイング展。
そこで初めて作品を目にするまで、
越ちひろさんのことは存じ上げていなかったのだけれど、
ついでに気分で展示を見せてもらって、不意打ち!やられてしまいました。
ギャラリーの壁を埋め尽くす300点以上にも及ぶドローイングの作品群。
描くことに対する情熱が否応なく伝わってきます。
ドローイングとは画家が日常的に描く練習画(言切れないが)の様なもの。
スケッチブックや新聞、広告、ポスターなどなど紙と見れば、
それこそ息をすって吐くように、衝動的に手を動かし描いていきます。
ただ、越さんのドローイングをよく見ていくと、
全体として表現されているものが浮かび上がってくるように思えました。
作品のなかでイスラムの女性と思われるモチーフが多数登場しています。
最近のニュースで我々が見るアラブ世界の輝と闇。
輝きは連日報道される若者達の沸き上がるエネルギー。
闇のひとつの象徴としてイスラム圏の女性の服装や地位のあり方があります。
(闇と思うのは、余計なお世話かもしれませんが)
イスラムの文化に詳しくなくても、
女性の身体を覆い隠す服はビジュアル的にイスラムに置ける女性のあり方を暗示させます。
それらの作品とは対照的に、
フランスの画家ドミニク・アングルの描いた「グランド・オダリスク」という、
裸の女性が横たわり振り向いている作品の印刷物の上に描かれた作品が数点ありました。
新古典主義を代表する画家ドミニク・アングル(1780~1867)の代表作とされる絵ですが、
これが発表された時に、女性の背中が極端に長く描かれていることに対し批評家たちは、
「背骨の椎骨が普通の人間より3本ほど多い」と批判したそうです。
極めて高いデッサン力を持つアングルが意図せずこのように描いたことは考えずらいので、
女性の背中の美しい曲線を描くために、女性の身体を変形させたと考えられます。
対照的とは書きましたが、
実のところは男性による、女性のありのままへの干渉だという点において
同じことではないかと気づかされます。
展覧会名である『ブラッド・ダイヤモンド』とは
血塗られたダイヤモンド・紛争ダイヤモンドなどといわれるらしく、
アフリカ諸国の内線や紛争における武器調達などの資金源になるダイヤモンド。
まさに輝きと闇を象徴するかのようです。
女性の美しさを引き立たせる存在である宝石が、
どこ(誰)で採掘され、それを買うのは誰(どこ)で、喜ぶのは誰(どこ)なのか。
自分(自国)の葛藤が、自分(自国)の内にあるものではなく、
誰かの干渉によってもたらされるものであれば、悲劇以外に生まれるものはない。
これはこの展覧会のほんの一部の闇の部分。
闇があることで輝いて見えてくるものが、越さんの絵の本来の魅力なのだと思います。
女性だからこそ掴み取れる真実と、みずみずしい感性を見に行ってはいかがでしょう?
3月1日までです。
越ちひろweb saitはこちら
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