2007年03月 一覧

「CGで充分」という手もある。

その消費は、ほんとうに必要か?
磯崎新さんが「住宅の射程」という本の中で、
最近の「デザイン」住宅のブームを受けて、このようなことをいっている。
「テレビを見ていると、カッコいい住宅みたいなものがコマーシャルに出てきますが、
ヴァーチャルにCGアニメーションでつくれるんです。
だから、なにも実際の建物をつくらなくても、
海の上に浮いて、柱が細くて、ガラスが透明で、
きれいな夕日が射しているカッコいい住宅といったものは、
今はコンピューターですぐできます。
実物をつくって、そこに住む必要はないです、コマーシャルの世界なら。
だけど、実際の小住宅でも、そういうものをつくろうとしてますね。」
そのような住宅は、ほんとうに必要だろうかと問いかけている。
はたまた前回のブログに書いた、
平野啓一郎さんの「多生懸命もたらす世界へ」という記事の中には、
セカンド・ライフ内には参加者が建てた、
「建築家の過激なスタディのような建物が方々に乱立している。」
というくだりがある。
ああ、もうこれでいいんじゃないの・・・、そう思った。
ブーム、流行というものは何にでもあるもので、ファッションや音楽ならまだしも、
ペットや家なんかになってくると、そうとうに考えもの。
欲求を満たすだけの、必要以上の消費であれば、
もう仮想世界ですればよいのではないだろうか。
今の製品の多くはCGでデザインされ、
CGを元に、モデリングマシーンで忠実にモックアップまで行われる。
オートマティックに製品化され、消費者の手に届く。
ほんとうに必要でないものならば、
CG→モノ(物質)→金 
よりも、
CG→金
の方がよほど効率的で、環境に優しげだ。
もしそれで消費欲が満たされるのであれば、
モノ(物質)なんて、資源を使ってまでつくらなくたってよいのかもしれない。
ぼくらが必要以上の消費を行わなければ、この経済活動が維持できず、
資本主義がその維持の為に戦争と隣り合わせだとするなら、
経済活動じたい仮想空間で行えばいいじゃないか。
「セカンド・ライフ」がアメリカで受け入られやすいのはよく分かる。
アングロサクソンが手狭になった土地を飛び出して新天地を求め、
歴史と切り離された(離した)土地にアメリカをつくった。
特定の文化をもたない「るつぼ」は、あらゆる欲求を飲み込んで、
気付いたら地球まで手狭にしてしまった。
森から都市へ、都市から仮想世界へ。
手狭になった地球を飛び出して新天地を求め、
ついにはネットの中にもっと自由で、欲望に忠実な「仮想都市」をつくったのだろうか。
もう経済も戦争もそこですればよいのかも。
いまだに日本では、手狭になった土地を上に延ばすことをやっているけど、
あらかじめ決められた店舗やオフィスで埋め尽くされたヒルズやタウンなんて、
必要があって商店が建ちゆっくりと淘汰され
しぜんと人や物の流れをつくる街に比べたら、バーチャルタウンと大差はない。
そんなビルはわざわざ実物を建てる必要が本当にあるのだろうか、
CGで充分じゃないか。
そこで売られるものもそうだ。
すてる技術や整理整頓の技術の本が書店にたくさん並ぶほど、
すでにものは溢れていて、
ぼくたちは消費することに疲れている。
それでも「経済」が大事なのであれば、
音楽や本が「データでもういいんじゃない」というのと同じ感じで、
必要以上のものは「CGで充分」という手もあるかもしれない。
今の経済は、つまるところ株価の変動があればよいわけで、
そんなゲームのために、地球を汚してまでする「経済」は
「暮らし」に比べたらとるにたらないものだ。
う~ん、ちょっと妄想がすぎたかもしれない。
ものづくりをする人間として自分の首をしめるような妄想なのだろう。
とにかく資本主義ゲームを現実でするにせよ仮想でするにせよ、
ゲームをつくった人間が一番儲かる構図は変わらないことには、注意がひつよう。
まぁ、ゲームから降りるって手もあるけどね。

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仮想現実は新世界?

今朝の新聞に「多生懸命もたらす世界へ」という記事を、
平野啓一郎さんが書いていたのがとても興味深かった。
その文章を要約すると、
「一生懸命」と言う言葉は、「一所懸命」の転じたもので、
元は鎌倉時代の御家人が、
幕府より与えられた土地を命懸けで守ることを意味していた。
「一所」から「一生」への変化は、人間が場所から解放され、
その流動性の獲得によって、アイデンティティの根拠が
生の軌跡そのものへと移行したことを示している。
懸命に生きるのが「一所」にせよ「一生」にせよ、
こうした発想が説得力を持つ根拠は、
我々の人格の住処である「身体」が、結局のところ、
分割不可能な単一性を宿命づけられていたからである。
ところが、インターネットが備えることとなった「世界性」によって、
その事情が今、変わりつつある。
ネット社会の発展により仮想現実に自由な人格を持った人間は、
「一生懸命」から「多生懸命」に生きることになるという。
ブログやSNSが一般化し、次には「セカンド・ライフ」という
もうひとつの「世界」がアメリカで人気で、
近日、日本語版が登場するのだそう。
三次元の仮想社会に願望通りの「自分」をつくり生活をさせることができる。
好きな服、乗りたい車、カッコイイ家に住み、参加者たちと会話も楽しめる。
すごいのは「セカンド・ライフ」内の経済活動を通じて得た
「リンデン・ドル」という通貨を、現実のドルと交換可能だということ。
かいつまむとこのような記事だった。
えっそんなことほんと可能?と思ってしまうが、
すでに四百万人が参加し、
トヨタや日産もセカンド・ライフ内に土地を所有していたり、
セカンド・ライフ内でのみ店舗を持つ会社もあると聞くと現実味を帯びて来る。
以前からネットゲームなどではゲーム内のアイテムを現実のお金で取引したり、
ゲーム内で知り合って結婚したカップルのお祝いに
ゲーム内のアイテムをプレゼントしたり、
はたまた、現実の彼氏とケンカして、ゲーム内の彼の所有物を勝手に捨てたら、
現実世界の裁判所で有罪になったなんてこともあったぐらいだから、
仮想世界での経済活動と現実世界の経済活動の価値が、
交換可能というのは既に起きていることなのだ。
ゲームに興味のない人でも、SNSの延長なんてぐらいな感じで参加し始めたら、
「セカンド・ライフ」という「新世界」がほんとうに出来上がり、
仮想世界の自分の方が重要であったり、
仮想世界でのみ金を稼ぐ人というのも現れて来るだろう。
神に背いて知恵の実を食べ森を追い出された人間が、
脳が描き出した都市という半仮想世界を経て、
たどり着くべくしてたどり着いた、
完全な人工の世界「セカンド・ライフ」。
動物である不自由さから自由になった人間が、
人間である不自由さからまでも自由になれるだろうか?
ぼく自身はこの種の仮想世界そのものには
まったく興味が湧かないのだけれど、
それによって世界がどう変わるかにはすごく興味が湧いてしまう。
眠くなったので、つづく・・・。
ちなみに平野さんの興味は、
ひとりの人間が多(くの)生を持った時に(身体から自由になった時)、
ある人とまた別の人との差異というのは、何か?ということにあるようです。
攻殻機動隊なんかで扱われているテーマに近いのかなぁ。

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へんがお。


四角い状態から荒取りしたところのところ。
四角くても、丸くてもへんな顔です。
というか、ちと怖いなぁ。
えっ、これほんとかわいい感じになるんだろうか。
う~む、「ちんぷんかんぷん」だなぁ・・・

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