「CGで充分」という手もある。
その消費は、ほんとうに必要か?
磯崎新さんが「住宅の射程」という本の中で、
最近の「デザイン」住宅のブームを受けて、このようなことをいっている。
「テレビを見ていると、カッコいい住宅みたいなものがコマーシャルに出てきますが、
ヴァーチャルにCGアニメーションでつくれるんです。
だから、なにも実際の建物をつくらなくても、
海の上に浮いて、柱が細くて、ガラスが透明で、
きれいな夕日が射しているカッコいい住宅といったものは、
今はコンピューターですぐできます。
実物をつくって、そこに住む必要はないです、コマーシャルの世界なら。
だけど、実際の小住宅でも、そういうものをつくろうとしてますね。」
そのような住宅は、ほんとうに必要だろうかと問いかけている。
はたまた前回のブログに書いた、
平野啓一郎さんの「多生懸命もたらす世界へ」という記事の中には、
セカンド・ライフ内には参加者が建てた、
「建築家の過激なスタディのような建物が方々に乱立している。」
というくだりがある。
ああ、もうこれでいいんじゃないの・・・、そう思った。
ブーム、流行というものは何にでもあるもので、ファッションや音楽ならまだしも、
ペットや家なんかになってくると、そうとうに考えもの。
欲求を満たすだけの、必要以上の消費であれば、
もう仮想世界ですればよいのではないだろうか。
今の製品の多くはCGでデザインされ、
CGを元に、モデリングマシーンで忠実にモックアップまで行われる。
オートマティックに製品化され、消費者の手に届く。
ほんとうに必要でないものならば、
CG→モノ(物質)→金
よりも、
CG→金
の方がよほど効率的で、環境に優しげだ。
もしそれで消費欲が満たされるのであれば、
モノ(物質)なんて、資源を使ってまでつくらなくたってよいのかもしれない。
ぼくらが必要以上の消費を行わなければ、この経済活動が維持できず、
資本主義がその維持の為に戦争と隣り合わせだとするなら、
経済活動じたい仮想空間で行えばいいじゃないか。
「セカンド・ライフ」がアメリカで受け入られやすいのはよく分かる。
アングロサクソンが手狭になった土地を飛び出して新天地を求め、
歴史と切り離された(離した)土地にアメリカをつくった。
特定の文化をもたない「るつぼ」は、あらゆる欲求を飲み込んで、
気付いたら地球まで手狭にしてしまった。
森から都市へ、都市から仮想世界へ。
手狭になった地球を飛び出して新天地を求め、
ついにはネットの中にもっと自由で、欲望に忠実な「仮想都市」をつくったのだろうか。
もう経済も戦争もそこですればよいのかも。
いまだに日本では、手狭になった土地を上に延ばすことをやっているけど、
あらかじめ決められた店舗やオフィスで埋め尽くされたヒルズやタウンなんて、
必要があって商店が建ちゆっくりと淘汰され
しぜんと人や物の流れをつくる街に比べたら、バーチャルタウンと大差はない。
そんなビルはわざわざ実物を建てる必要が本当にあるのだろうか、
CGで充分じゃないか。
そこで売られるものもそうだ。
すてる技術や整理整頓の技術の本が書店にたくさん並ぶほど、
すでにものは溢れていて、
ぼくたちは消費することに疲れている。
それでも「経済」が大事なのであれば、
音楽や本が「データでもういいんじゃない」というのと同じ感じで、
必要以上のものは「CGで充分」という手もあるかもしれない。
今の経済は、つまるところ株価の変動があればよいわけで、
そんなゲームのために、地球を汚してまでする「経済」は
「暮らし」に比べたらとるにたらないものだ。
う~ん、ちょっと妄想がすぎたかもしれない。
ものづくりをする人間として自分の首をしめるような妄想なのだろう。
とにかく資本主義ゲームを現実でするにせよ仮想でするにせよ、
ゲームをつくった人間が一番儲かる構図は変わらないことには、注意がひつよう。
まぁ、ゲームから降りるって手もあるけどね。