『新技芸』展、前編。
11日から14日の日程で、
上海で開催される「新技芸」展に参加するために中国に行ってきました。
「新技芸」展は中国の大学を中心に、
日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、イスラエルの大学などなどの、
若い教員や若手作家の工芸作品を、集めた展覧会です。
日本からは、東京芸術大学、金沢美術工芸大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学が参加し、
武蔵美からは、吉野郁夫さんと僕が作品を出品しました。
さらに各大学から1名が、開会式とシンポジウムに招待されるということで、
初めて中国へ行くことになりました。
11日は、羽田空港に朝6時半集合で、8時半の出発でした。
時差1時間で、現地時刻10時半に到着、
日本からの参加メンバー4名と話していたら、あっという間に着きました。
上海の空港に着くと、曇り?と思いましたが、
どうやら大気汚染のようで、モヤモヤとしていました。
日本に帰国後、やたら咳がでるなぁと思ったら、
疲れもあってか熱まで出てダウンしてしまいました。
大気汚染と関係ないかもしれませんが、気持ちもモヤモヤしますね。
さて、空港ロビーに迎えの方が来ていて、車で1時間ほどの上海の中心部に向かいます。
ホテルに着くと、ロビーに新技芸参加者のブースが設けられていて、
中国側の熱の入れようが伝わってきました。
ちなみに今回の日本参加者の旅費や滞在費は、すべて中国側が持ってくれています。
日本からだけでも7名が参加していて、世界各地からも出品者を呼んでいることを考えると、
大変なことだな〜と、中国の経済力を感じてしまいます。
11日午後はフリーということで、みんなで観光に出かけました。
どこもかしこもモヤモヤしていますが、ここは上海らしい場所のようです。
一緒に行った日本からの参加者が、すでに国際色豊かで、
左から、イラン人のサブーリさん(東京芸大卒)、アメリカ人のマギーさん(東京芸大院生)、
そして僕で、写真を撮ってくれているのが東京芸大の三神慎一朗先生です。
多摩美術大学の先生は残念なことに授業があるそうで不参加。
金沢美術工芸大学からの参加の先生たちにはこの後お会いしました。
上の写真の対岸は、古い建物で、川の両岸での対比を楽しむ場所のようです。
結構暖かじゃんと、薄着でホテルを出た僕と三神先生、川の風が寒くて後悔しました。
2日目は、ホテルから徒歩で5分くらいの会場で開会式に参加しました。
東京芸大の三田村教授、金沢美工大の前田学長、
イギリスや韓国、中国の各大学の学長などが挨拶をしました。
この様子なんで、いかに大きなイベントであるかがうかがえます。
会場入り口に参加大学が書かれていました。
すべての参加国が明記してあるわけではなさそうですが、いろいろな国がありますね。
ちなみにアメリカは日本では「米」ですが、中国では「美」と書くそうです。
二列目に武蔵美の名前がありますが、「術」という字は「木」「、」の略字で書くのですね。
今回の展覧会の主催が「清華大学美術学院」で、承催が「上海工芸美術職業学院」です。
この会場は清華大学が今回の展示のために買った場所だとかで、
中国の大学のサイフは計り知れないです。
どうでしょう?パっと見た会場の最初の印象は、
中国らしさとか国際色豊かといった雰囲気をあまり感じないなぁというのが正直な感想でした。
日本でいうと、日展や日本クラフト展のような雰囲気でしょうか?
これは後に色々な方から聞いてわかったことですが、
この雰囲気はおそらく「東京芸大的」と呼ぶのがよいかもしれません。
芸大の三神先生の作品。
清華大学で研究をしている日本人の三田村さんの作品。
金沢美術工芸大学の高橋先生の作品。
多摩美術大学の長谷川先生の作品。
芸大の青木宏憧先生の作品。
清華大学の潤福先生の作品。
いつも通りの僕の作品です。
基本自分が写真を撮っているので、
僕が写っているのは記念撮影になりますね、家族写真でもそうですが。
とても立派な加湿器(写真右)がいくつも置いてあり、作品のケアはとてもに良さそうです。
すごい作品が目白押しでしたが、
写真が綺麗に撮れていたものだけ一部の作品を並べさせてもらいました。
作者の名前もわかる方だけ書かさせてもらいました。
なんとなく雰囲気がわかってもらえるでしょうか?
いろいろな国の先生や作家が参加しているのですが、
聞いてみると東京芸大に留学経験のある方が多いようです。
なぜ、先ほど「東京芸大的」工芸の雰囲気があると言ったかというと、
ちょっと難しい話になりますが、
中国における「工芸」という言葉や概念は日本から輸入したものなのだそうです。
日本の「工芸」の概念が形成されたのもそれほど古いことではありません。
「工芸」の概念は日本の近代化=西洋化と工業化によって形づくられていきました。
明治以前には、美的な「もの」たちは混沌として特に呼び名がありませんでした。
明治時代に西洋化の中「美術」(1873年)という言葉が美的な「もの」たちに与えられました。
その後「美術」の純粋化により、観るだけの「もの」として「絵画」「彫刻」が「美術」になり、
余った「もの」が「工芸」となりました。
また、明治の一時期に輸出工芸として花開いた「工芸」でしたが、
日本の工業化(1890年頃)に伴い「製品」が「もの」の中心になってくると、
その座も輸出製品に明け渡していきます。
ですから「工芸」は、
表現性を高めようとすると「美術」に接近してしまい、
実用性を高めようとすると「製品」に接近してしまって、
立ち位置が常にグラグラとした存在のように感じます。
明治から大正のできたての「工芸」には、
表現に迫った「美術工芸」、柳宗悦が美の標準を求めた「民藝」、突き詰める「デザイン」、
技芸を評価する「伝統工芸」、後に北欧からやってくる「クラフト」などの概念を含む、
多様性を包み込む力がありました。
これらの細かな「工芸」の概念形成の過程で、特に「美術工芸」の分野は、
高村豊周らによる東京美術学校(現東京芸大)の作家の果たした役割は計り知れません。
世界に類例のない「美術工芸」という分野を作ったのは、
岡倉天心から始まる東京芸大の歴史であると言ってもいいのかもしれません。
さらに「美術工芸」の分野を「工芸美術」と語順を変えて導入していった学校の一つが
中国の清華大学美術学院だそうです。
中国における「工芸」という概念が日本から輸入される過程には、
東京芸大の先生や、芸大に留学生としてきた後に中国で先生になっていく方の関わりが深く、
「東京芸大的工芸」が中国の「工芸美術」という分野を形成していると考えられます。
明治の文明開化の折に、西洋近代美術を「文化」のお手本にした日本の「美術」から、
漏れ残った「工芸」というの概念が、ある価値を持って中国で受容されたのなら、
それはまことに結構なことだといえます。
ただし、中国の受け入れた「工芸美術」という概念は、
「美術工芸」という狭義の「工芸」であるかもしれないと感じました。
なんとなく僕が感じたこの展覧会の独特な雰囲気が、
中国の「工芸美術」全般のものなのか、この展覧会だけで分かるはずもありませんが、
率直な感想として覚書しておこうかと思います。
まぁ、全般の感想としては中国勢いとまんね〜!というのと、
芸大の影響力はんぱね〜!ということでした。
とにかく3泊4日の旅行中、ず〜と工芸や美術の話をしているという、
楽しすぎる旅になりました。
後編に続きます。