秋祭り。

少し前に、ぼくの住んでいる吉田地区の秋祭りがあり、
そこで獅子舞を見た娘が、朝から晩まで獅子舞ブームになってしまいました。
あまりに楽しそうなので、先日同じ中野市の赤岩地区の秋祭りを見に行ってきました。
民間信仰のちょっとしたマニアのぼくの父のおススメだったのですが、
予想よりはるかに良いお祭りでした。
実のところ、ぼくはこういった祭りを見る目はけっこうあります。
民族学的にどうとかいうことではなく、単純に「うまい」とか「美しい」とか分かるだけですが。
というのもウチの両親はアマチュアで民俗学研究をしていて、
母などは、いちおう学会で論文を発表する程度に活動をしています。
よって、子供の頃のぼくと兄は、その趣味につき合わされて、
全国各地いろんなお祭り連れ回されました。
お祭りといえば普通は「楽しそうじゃン!」と思うかもしれませんが、
屋台が出てワッショイワッショイというお祭りとは違って、
地味だし、無用に長いし、小さい兄弟にとってはつまらな過ぎて死にそうでした。
ただ、その土地土地にれんめんと受け継がれ、
素朴な祈りが込められた祭りがあるという事実は、ぼくや兄にとって普遍的事実ではありました。
そんなお祭りを、何の因果か娘が見たがるとは、不思議なもんです。

 

ちいさい頃から、齢三十をすぎるまで、
一般的にいえばマニア的に祭りを目にしてきたぼくの感じでは、
若い人たちにしっかりと伝承されている地域では、
全体に緊張感があり、場の空気も張りつめます。
そういう祭りはエンターテイメントとして意外な程面白いし、
芸術として見てもスゴかったりします。
宮崎駿の映画などの影響か、「日本は八百万の神の国」だから
特定の宗教を強く信仰しない(しなくていい)
特異な国だなんてなことを一般的にもいわれるようになりました。
ぼくは、こんないい方にちょっと違和感を感じます。
巨木信仰にしろ、ちょっとした道祖神にしたって、
どんな八百万の神様達もただいるのではなく、
実際には誰かの信仰心や、具体的な行動によって支えられています。
祭り自体は、豊穣を祈ったり感謝したりと、1年という時間を表します。
祭りの中心となるのは青年たちで、それを見守るのはかつての青年である老人たち、
太鼓や踊りで子供たちも参加すれば、神社の舞台には人の一生が映し出されます。
そして、それが永遠に続いていくであろうという実感や具体的な場が、
祭りに参加する人たちに安心と居場所を与えてくれます。
赤岩の祭りが美しいのは、そこに集う人々の心の現れ。
国道沿いを中心に生活はますます単純化され、
液晶画面を覗いていれば全てが分かったような気になってしまう日常の中で、
複雑な自然の一部である人間の精神は、拠り所を求めさまよいます。
地域や会社や家族すら不確かになり、
不安を消費やテレビでごまかせたあの日は、まだ幸せ・・・。
誰だってそう、自覚的に無自覚に何かにすがって生きていて、
スピリチュアルもヨン様も、もしかしたらエコだって、つまるところは根は同じ。
動物としての人は科学的、経済的、合理性にのみ生きることはできないから、
今後ますます、このような祭りが大切になっていくのかな。
What do you think of this post?
  • like (0)

コメントをどうぞ