たまに考えてみる 一覧

【 デザインの価値観<ちから>プロジェクト 】報告。

先のブログで紹介しました、武蔵野美術大学木工コースを中心に、
女子美術大学、沖縄県立芸術大学、山口県立大学と共同で行なった
横浜の展覧会の報告です。

 
 
 
 
 
 
 
 
(写真は学生、作家、卒業生の作品。全て載せたいところですが、
慌てて撮ったのでだいたいボケボケ、良く撮れていた作品を一部紹介。)
1929年に第一銀行の横浜支店として建てられた、歴史的建造物である
ヨコハマ・クリエイティブシティ・センターに、
作家やデザイナーの卵達の想像と情熱が、ところ狭しと並びました。
若者のエネルギーが凝縮された様は、なかなか壮観です。
最終日には山田節子さんの特別講義があり、ぼくも聞きに行ってきました。
デザインとは、「もの」そのものをデザインすることだけではなく、
見せることや環境をつくることなど、私たちの周りにある全てはデザインされていて、
そのデザインの善し悪しを最終的に決めるのは、
デザインする者の生き方、人間性に属するとのお話でした。
パッと見によいデザインをつくることは、多くの人に出来ることかもしれませんが、
その中身まで磨き上げることが難しいのは、
人間自体ののそれと同じであり、一朝一夕にはどうなるものでもないということでしょうか。
なんとも考えさせられる講演でした。
講演の前に山田さんと話をしていて、印象に残ったことがあります。
「もうこれからは、物は売れない時代なの。」
なんとなくは分かっていることではあるけれど、
30年以上銀座松屋の売り場のコーディネイトを担当し、
日本の生活文化をつくり出し、さらに次の時代を見据えた、
その言葉には説得力というか、摂理のようなものを感じます。
しかし、だとするならデザイン、
狭い意味でのデザイナーという職業は在り続けるのかという疑問が生まれます。
デザイン(意匠)はもともとは工芸として括られていた総合的な創造活動の一部が、
近代化、産業化の中で分化したものと言えます。
「物は売れない時代」とは物が溢れてしまった供給過多と、
環境や資源といった次なる希少価値をめぐる反消費によるものでしょう。
もしくは、一部進んだ(?)人達に見られる「たるを知る」という
価値観によるものかもしれません。
産業化が行き着くところまでいき、経済構造を次の時代にシフトしなければいけない今、
デザイナーの在り方もまた見直されなければならないでしょう。
先進国における消費の落ち込みと同時に、
グローバル化によってもたらされる、消費文化、趣味、流行のボーダレス化は、
一部の企業の一商品を数千万個、億個単位で売ることを可能にしています。
「無駄」の入る隙、一切を排したコストダウンは、
グローバル化と生産・流通・売り場の一元管理を行なえない
「無駄」のある企業の入る隙を市場から排除し、単一な商品がどの国にも並びます。
これらが意味するのは、デザイナーが活躍するであろう場が急速に失われつつあることです。
物が売れなければ、物を生産できず、デザインは不要です。
冷え込んだ市場の中で一部売れている物というのは、
数千万個も売れる超コストパホーマンス良しな商品ですから、
今までは一万個も売れれば存在できた千種の商品がコスト競争に負け、
売れなくなり淘汰されたと考えられます。
一種の物が千種を淘汰するということは、(飛躍しますが)
1000人のデザイナーの仕事を1人で可能にします。
デザイナーの仕事は減っても、毎年デザインの勉強をした若者が社会人になります。
発展途上と言われていた国々でも、経済発展は教育力の向上も伴い、
消費文化の中で育ち、それを輝かしいものとする新世代が、
デザイン教育を受け、高いデザインセンスを発揮しはじめています。
グローバル社会においては、才能さえあれば国境はありません。
それ以前にでさえ、世界的に活躍した日本のデザイナーがいることを考えてみれば、
みずみずしい才能と消費社会にまだ肯定感をもてる環境を持ち合わせた
有能なデザイナーが、
中国、インド、ベトナム、タイ・・・と次々に現れてくるのは必然です。
あまりクリエイティビティを必要としないデザイン分野においては、
安い労働力を求めて、かつて生産工場をそうしたように、
海外にアウトソーシングするのが普通になるでしょう。
(すでに、コール

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うそをつけない木工家。

先日、材木屋さんにパオローズという木を製材に行ってきた。
直径90センチの大木。
切り割ったばかりの木は匂い立つような魅力があり、
閉じ込められていた生気が解き放たれたかのよう。

 

この木は、近くに住む大工さんに譲って頂いた。
樹齢100年は下らない上に、大工さんが2、30年前に買って置いたものだとか。
建設中の家に使えと、くれたものなのだけれど
乾燥が間に合わないなど種々の問題があり断念。
かなり堅い木なので、寄せ木の作品には不向きだが、
とてもいい色と木目なので、いつか家具や小物の作品にしようかと考えている。
さて、工場長と話していて、ふと思ったことがある。
木の仕事に関わっている人間は正直な人が多いような気がすると。
自分でいうなという気もするが、
僕がというのではなく、周りにいる木工作家や木材屋さん、
木工機械の業者の人などのことだ。
おそらくそれは、木にはウソがつけないからではないだろうか。
木工家であれば、見てくれをきれいに作ることよりも、
表には出てこない「ほぞ」などの構造に関わる部分を
より丁寧につくることを良心と考えている。
納品する時には見えてこないところだが、
100年、200年と使い続けられる家具にするためには一番大事な場所だからだ。
見た目を大事にするのは、
目の前のお客さんの気を引くのには大事なことかもしれないが、
「ほぞ」を大事に作る木工家は、
(誤解を恐れずにいえば)お客さんに対して仕事をしているのではないのだ。
人の好みなどという、普遍がありそうで無さそうな微妙なものを頼りにするのではなく、
自分よりも100年も200年も先に、地球に生まれた木に対する敬意を持ち、
木に対して恥ずかしくない仕事をしているかを問い続けている。
一本の立木を見てみる、
幹から枝が分かれ、さらに梢に分かれて、その先には無数の葉が茂る。
葉の間には鳥や毛虫など無数の生物が生活している。
葉の先端から、空を見上れば、全ての生物がその恩恵にあずかることを思い出す。
深く息を吸って、また幹に目を落とすと、それが一本の幹であることに驚く。
完成された強靭で柔軟な構造と生命の秩序が、そこに見て取れる。
その「完全」を切り倒して、何を生むことができるだろうか?
自問は繰り返され、小さな自答が滲み出る。
それでもなお木の魅力に取り付かれた僕たちは、木を切り倒して仕事をする。
うそをつくことはできない。
うそのない仕事とは、けして完ぺきな仕事のことではない。
木は作品、製品になった後も「うごく」。
湿度によって膨張・収縮を繰り返す木材の性質上、
割れや反りの可能性をゼロにすることはできない。
だから僕たちは自分のできる限りの仕事によって生まれたその作品を、
買って下さった方に、「完全」でないこと(反る・割れる)を告げながらお渡ししている。
それは、うそがつけないというだけではなく、買って下さった方にも、
「完全」なる自然を切り取り、自然を超越することなどできないことを受け入れながら、
「不完全」なものをつくり続けてきた、人間のいとなみと、
自然から離れ過ぎたがゆえに、自ら「エコ」をうたってしまう行いの「不全」を
知って頂きたいという、木工家の下心だったりする。
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骨董と工芸。

 先日、長野市にある「ガレリア表参道」というギャラリーに、

『木工家の仏壇と祈りの箱展』を見に行ってきました。
ぼくの行った日は、木工家の谷進一郎さんのギャラリートークもあり、
とても勉強になりました。
トークゲストに小布施町にある銘菓の老舗「桜井甘精堂」社長桜井佐七さん、
木彫仏像を作られている長井武志さんを交えて、
骨董収集家の青山二郎氏のお話を中心に、骨董や仏具のお話を聞きました。

 
谷進一郎さんのお話は学生時代にも聞いたことがあり、
その著作を読んだりして、尊敬している工芸家のひとりです。
谷さんの作品は、一言で言うと「日本にしかない木の家具」だと思います。
日本の木工家具は(かなりはしょって)住宅の西洋化とともに始まっていますので、
日本本来の家具というものはないし(テーブルやイスがなかったように)、
意識せずとも洋家具的に(よいわるいではなく)なってしまいます。
日本の木工家具の歴史が浅いということもありますが、
欧米の木工家の作品も日本の木工家の作品も、
作品だけ見たのでは大きな違いを感じるものは少ないです。
しかし、谷さんの作品は一見して谷さんの作品だと分かるし、
「日本」というものがにじみ出ていて、日本でしか生まれえない家具だと思います。
強い個性をもちながら、時代を超える普遍性を感じます。
作品に普遍性というものが必要かどうかは別として、骨董というのは面白い世界です。
青木二郎氏と桜井佐七さんとの、骨董を通じての交流のお話は、
作品が時代を超えることや、時を経ることで増す魅力という、
工芸家が意識せざるをえないものについて考えさせられました。
工芸家であれば一度は考えたことがあるのではないでしょうか、
何十年後、何百年後に、
自分の作品が骨董屋の店先に列んで、
通りがかった人が何かに吸い寄せられるように足を止め、
ガラス越しにそれに見入る。
何日もそれが頭から離れず、通りがかる度にながめてしまう。
ある日、たまらず店主に声をかける。
「これ、どういうものです?」
「いや、よく分からないものでね、作者とか流派とかそういうのじゃないから。」
「なんの為に作られたものなんでしょう?」
「いや、それもよく分からない、意味とかって時代で変わっちゃうし、想像するしかないね。」
「そうですか・・・よく分からないけど、なんかすごくいいんです・・・。」
「なんかいいんだよね、これ。」
「はい、・・・あの、買いたいんです、これ。」
時代を超えて、意味とか、属性とか、そういうのも超えて、
「もの」それだけから発せられる魅力が、人を引きつけてしまうようなものが確かにあります。
できることなら、そんな魅力を「もの」に宿らすことができたら、と思う・・・。
難しいことだけれど、工芸のよいところは素材自体がすでに魅力を放っていて、
それを理解していれば、かなりの部分たすけてもらえるところかなと思います。
自分の作品が骨董屋にならぶ日がくるかは分かりませんが、
ある意味では、そこからが真の勝負じゃないかと思いました。
いい作品が作りたいものです。

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