たまに考えてみる 一覧

エーリッヒ・フロム

今日はブログを2つ書きました。
というのも、Pananaさんのコメントを読んでとても感動したからなのです。
この感じは、あれのことじゃないのかと、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本を引っぱり出してきて、
付せんのはってあるページを読み返しました。
18歳の時の自分が引いた線を目で追いながら、
あの時はまだ、ほんとうには理解していなかった「愛」について分かった気がしました。
Pananaさんのコメントを読んで、
「親」になるとは、まさに「愛するということ」を知ることなのだと思いました。
すごくステキなコメントなので興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。
以下に転載させて頂きました。
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ずっとずっと、なんだかモヤモヤしていました。
3人の子どもに恵まれた私がコメントしてもいいのか、喜びに浸っている中川夫妻の気持ちに水を差してしまわないか、ずっと迷っていました。
今もドキドキしながら書いています。
どうして神様は赤ちゃんの誕生を待ち望んで、きっと素敵な親になるような人に子どもを授けないで、邪険にしたり、虐待したり、殺してしまうような人に子どもを授けるのかな、と時々、考えることがあります。
以前、知人が「子育てに免許があったら、免許をもっていますか?自動車学校のようなものがあったら、自分はどの段階ですか?」と尋ねたことがありました。
実は知人夫妻は9年間の不妊治療の末、治療をやめて、養子をもらう決心をしたそうです。
私がその質問を受けた時には既に、その子どもさんも保育園に入っていました。二人の子どもさんを受け入れたのですが、うちの子供と同じ年頃なので、今は、思春期真っ只中です。
小さい時から知っていて、てっきり血の繋がった親子だとばかり思っていたので、養子と聞いた時には驚きましたが、お二人が「授かること」より「育てていくこと」を選ばれたことに感動しました。
その子達が今、両親の光を受けて、幸せに立派に育っているのを見るたびに、ご両親の決心がなかったら、この子達はどんな人生を送っていたのだろう、と考えます。
命を授かること、それはとても素晴らしいことです。
でも、それに固執するのは大人のエゴのように感じるのです。
昔なら「多子児」になっていた体外受精での不妊治療。
今は、胎児を選べるそうですね。
遺伝子だけを受け継いで代理出産される子ども。
子どもはそんなにしてまで「生んで欲しかった」のかな?
親殺し、子殺しが頻繁に報道される中で、「出産」だけが全てではないなって感じるのです。
いかに育てるか、いかに子どもに幸せを感じさているか。
それが親としてできることじゃないかな?って感じるのです。
上記の知人夫妻は立派な「親」だと思います。
遺伝子を受け継がせた親達より「親」をしていると思います。
3人の子どもを育ててきて、子育ての素晴らしさを感じます。
と言っても、ノイローゼになりかけたことも、もう要らない!と思ったこともあります。
キャリアを諦めたり、経済的な負担がかかったり、自分の時間すらなくなったり、色んなものを犠牲にしなくてはいけないかもしれません。
でも、私は、それであっても、こんな素晴らしいことを多くの人に経験して欲しいと思います。
子どもから沢山のことを学んだり、無償の愛情を受けたり、自信と勇気をもらったり・・・・。
でも、それは「出産」でなくても、今、愛情を求めている子ども達からでも受けられるんじゃないかって思うのです。
「生む」こと以上に「育てること」の方が、ずっとずっと時間をかけるに値することではないかな、と感じるのです。
それが、先に感じた神様への疑問の答えのような気がするのです。
| Panana | 2007/01/28 1:42 PM |
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Pananaさんの言う、子育は大変なことはあるけれど
「子どもから沢山のことを学んだり、無償の愛情を受けたり、自信と勇気をもらったり」
できることに素晴らしさを感じるというのが、よいなぁと思いました。
お子さんから沢山のものを与えられたのは、
Pananaさんが沢山の愛情を与えたからなのでしょうね。
エーリッヒ・フロムが本の中で、
「もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。
だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、
その生まれたものは自分にはね返って来る。
ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。
与えるということは、他人をも与える者にすることであり、
たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのである。」
と、書いているのにピタリときました。
「もし愛することが、誰にたいしても愛情豊かな態度をとることを意味するとしたら、
(中略)身内にたいする愛と、赤の他人にたいする愛とのあいだにも、『分業』はありえない。
それどころか、赤の他人を愛することができなければ、身内を愛することはできない。」
養子を迎えられたご夫妻は、真に愛情深い方達なのでしょうね。
「生む」こと以上に「育てること」に「愛」を見いだすことは、
現代に置いては重要なことかもしれません。
「愛するということ」は1956年に出版されました。
マルクス主義的な立場から書かれているところに時代を感じるものの、
50年以上も前に書かれた本でありながら、その内容は色褪せることのないように思えます。
フロムは本の最後にこんなことを書いています、
現代社会の「人々の目的は、もっと多くを生産し、もっと多くを消費することだ。
それが生きる目的になってしまっている。
全ての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。
いまや人間はロボットである。
おいしいものを食べ、しゃれた服を着てはいるが、
自分のきわめて人間的な特質や機能にたいする究極的な関心をもっていない。
(中略)
もし愛が、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の健全で満足の行く答えだとしたら、
愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、
やがて滅びてしまう。
(中略)
愛の性質を分析するということは、今日、愛が全般的に欠けていることを発見し、
愛の不在の原因となっている社会的な諸条件を批判することである。
例外的・個人的な現象としてだけではなく、
社会的な現象しても、愛の可能性を信じることは、
人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。」
今日はあれこれと思い出しながら、「親」になることについて考えさせられました。
Pananaさん、心のこもったコメントありがとうございました。
神様への答えはそれが正解なのだと、ぼくも思います。
少子化の問題や不妊治療のこと、もう少し考えてみようと思います。

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鉄コン筋クリート

さて前回に続き『鉄コン筋クリート』ですよ。

このお話の舞台は「宝町」というゴチャゴチャとした下町のようなところ。
ここには路上生活者のシロやクロやじっちゃ、
ヤクザの鈴木(ネズミ)や木村、
族のチョコラやバニラなど、
社会からこぼれてしまった人達がたくさん住んでいる。
町はクロのものであり、木村のものであり、チョコラのものであり、
それぞれが町を愛し、町に依存して生きている。
町もまたそこに住む彼らに依存し、彼らを愛している。
ゆっくりと変化していく「宝町」に、蛇という男が現れて町は急激に変わり始める。
「子供の城」という巨大なレジャー施設が建設され、町の空気はいっぺんしてしまう。
シロと町を守るため「オレの町だ!」と、叫んで闘ってきたクロもなす術がないのか・・・。

なぜ今この物語が映画化されることになったのか?
それはきっと、グローバル化やIT化の影で急速に消えていく何かを、
この物語が語るからではないだろうか。
ヤクザの鈴木役で出演している舞踏家の田中泯さんが
パンフレットでこんなことを書いている。
「優れた作品は大抵そうですが、
『鉄コン筋クリート』も“早すぎた傑作”だと思います。
まさに今こそ、注目すべき作品ではないでしょうか。
現在、世界はますます単純化されようとしています。
ですが、人間は元々とても複雑ないきものであり、
その複雑さを単純化しようという時代の流れは、
進化しているようで、実は退行しているのだと思うんです。
この作品は、そんな傾向に一石を投じる内容を持っています。」

一種類の木では森が森でいられなくなるように、
そしてそこに住む生物の多様性が失われていくように、
町もまたグローバル企業の大型店舗が郊外に建ち、複雑さが消えれば、
淀みに生きていた人々の居場所は失われていく。

町を彩った商店街の店は個性的がゆえに、トレンドではないし、ダサイかもしれない。
ほんとは何処かの雑誌に載ってた「個性的」風のトレンドの方がずっとダサイかもしれないけどね。
ぼくは、埼玉の実家のそばにあった「いまじん」という小さな古本屋が好きだった。
店主のおじちゃんは相当に本を愛している人だった。
一冊一冊に丁寧にカバーが掛けられ
どの本も「オレは価値があるぞっ」て顔で、誇らしげにきちんと並んでいた。
今あんな小さな古本屋なんて存在できないのだろうなぁ、
あんなに本を愛している人も。
あの店に行くようになった小学生の頃、
古本屋なんかがチェーン化し大企業になるなんて考えられただろうか。
ゴチャゴチャしていたものが束ねられ、町はどんどん整頓されていく。

いつからなのだろう、何処に旅行に行っても町が同じ顔になってしまったのは。
国道沿いには、ガスド、ユニークロ、ブックオブ、
町の中には、スターバックズ、マグド、にコムサデドモ。
日本だけじゃない、イギリスの空港もデンマークの空港も、
文字を見なけりゃ、みんな同じ。
やっぱりスターバックズでお茶して、チャネルで香水買って、ナエキでシューズ買って、
ソーニのデジカメもありますよって、ここは何処の国ですか?
みんな同じで、個性的、とっても平和なこの暮らし、あたしゃチョンマゲでもゆわこうか。

経営も流通も淀みなく、世界におんなじ個性をお届けします。
無のグローバリズム。
均一化された社会、わかりやすい社会、わかりやすいマーケット。
大量につくり大量に売る為に同じ個性でいて下さいね。

シロは言いました、
「どしてみんな同じに、つくらなかったか?」
「デブッちょ、やせっぽっち、ノッポ、チビ助、こわい人、やさしい人、いろいろ。」
「ちっぱいしてんの。神さま、いっぱい。」

多様性を許容する為の淀みが失われていくのと、引きこもりの増加は無縁じゃない。
・・・3万人の死因もそうか。
効率化の先の、あまりにも悲しい効率的な死。

何かが失われている、それはみんなが分かっていること。
単なる郷愁だよ・・・と、笑えるうちはまだましかもしれない。
長野市での『鉄コン筋クリート』の上映は
最近できた巨大なシネマコンプレックスだというのが、なんとも皮肉だね。
これも笑い飛ばすしかないのかい、お侍さん?
ちょっとちょっと、「ニート」という名の切り捨てはご免だぜ。

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鉄コン筋クリート


先日、善光寺さんに初詣に行ったついでに、
映画『鉄コン筋クリート』を見てきました。
松本大洋原作のマンガ版『鉄コン筋クリート』の大ファンなので、
すごく楽しみであり、ちょいと不安でもありました。
(写真左/映画パンフ、右/原作マンガ)
あのシロとクロ(主人公の2人)を松本大洋以外の人が、描くコトなんてできるのだろうか・・・。
でも動いてるシロとクロを見てみたい!
複雑な気持ちでスクリーンの中で動き回るシロとクロを見守りました。
「すごい・・・!」
スクリーンには、松本大洋の描いた「宝町」がほんとうに存在していて、
「シロとクロ」が「ネズミ」が「チョコラ」がみんなが生き生きと、
そこに居るみたいに大活躍していました。
そしてなにより松本大洋が伝えたかった「コト」が、ちゃんと表現されていたと思いました。
よかった、ほんとよかった・・・泣けた・・・。
監督のマイケル・アリアス、あんた最高だよ!感動した!
とても思い入れが強い作品なのであれこれ考えてしまって
これより下の文章はちょいとハズカシげなことを書くので、
鳥肌が立ちそうな人はあっち向いてホイってことで・・・。
クロとシロについては人間の二面性や表裏と取ることもできるけど、
ぼくは単純に「ふたりの愛の物語」のヒーロー・ヒロインなのだと感じる。
複雑なのはシロとクロは2人とも男の子だということ。
松本大洋は『鉄コン筋クリート』『ピンポン』『花男』などの作品で、
一貫して「愛」を男女間でない所に描いている。
「愛」の原型が母子間の愛着であるとするなら、愛は依存関係なわけで、
圧倒的に子が母に依存しているようで、生きる目的としては母が子に依存している。
『鉄コン』では子がシロで・母がクロ、『花男』では子が花男(父)で・母が茂雄(息子)、
『ピンポン』ではちょっと発展していて始めは子がスマイル・母がペコ、
途中から子がペコで・母がスマイル、『ピンポン』では少し曖昧だけど、こんな感じ。
大洋さんは男女間では描き辛くなってしまった「愛」の原型を、
すごく純粋なカタチで表現している。
あまたのラブストーリーが男女の求め合う本能と「愛」を混同させ、
欲求を神聖化してみせても、
欲求は本能であり、「愛」は大洋さんが描き出すようなものだと思う。
ぼくはこの感じがとても好きで、
「恋愛は自立した男と女の関係でなくてはならない」的ないい方が嫌い。
実際ほんとうに自立している人なんているのだろうか?と思うし、
とくに何か秀でている所がある人ほど全然だめな部分があって、
その足りない所は得意な人に頼れば(依存すれば)よいのかなと思うので。
そして自分の得意なことが、相手にとって不得意なことであれば幸運だなと。
松本大洋の作品を読むと、とても気持ちが楽になる。
それは例えば、こんな台詞に出会ったときだ。
ちいさな時からクロに何から何まで世話をしてもらって、服さえ自分で着れないシロが、
自分を守ってくれるクロから引き離された時に、
神様は人間をつくる時に「どしてみんな同じに、つくらなかったか?」と問う。
「デブッちょ、やせっぽっち、ノッポ、チビ助、こわい人、やさしい人、いろいろ。」
「ちっぱいしてんの。神さま、いっぱい。」
神さまはシロをつくる時もかなり失敗してしまったらしく、
「だからシロ、いっぱいネジ無いの。心のネジ・・・」と言い、
「それでクロね、クロもね。いっぱいネジ無いの。心のネジ。」
どうやら神さまはクロのことも失敗してしまったらしい、
「でもクロの無い所のネジ、シロが持ってた。シロがみんな持ってた。」と話してくれた。
気持ちが楽になるのは、この感じが腑に落ちるからなのね・・・きっと。
あれ、なんかロングブログになってしまった。
まだ書きたいコトがあるので、また今度につづく・・・。

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