たまに考えてみる 一覧

命。

大学生の時、楽しみにしていた講義のひとつに、文化人類学というのがあった。
教授はVTRマニアで世界中の宗族の映像を見せてくれた。
記憶に鮮明に残っているものにこんなものがあった。
アフリカの部族だったか、アメリカの先住民族だったか
鮮明というわりに定かじゃないんだけど、
酋長が呪術で子供の病気を治そうとしているVTRだった。
葉巻みたいなものをくわえ、その煙を子供の体に吹きかけながら
悪霊を追い出そうと、必死にマッサージを続けている。
祈りはとどかず、どんどんと弱っていく子供・・・。
その子の母は崩れ落ちおいおいと泣き出す。
部族の他の女たちは、我が子の死を目の前にして泣き崩れる母親に寄り添い、
自分たちの頭をナタで傷つけて、
額から血を流しながら泣き叫ぶことで、悲しみをいっぱいに表現する。
その子とその母親の痛みを、まるで分ちあ合おうとしている様な姿が
強烈に印象に残っている。
この話を聞いてどうだろう?たんに遅れた社会の話だと感じるだろうか。
ぼくも見ている時には、
撮影しているTVの取材班達が、大急ぎで街の病院に連れて行けばいいんじゃないの?
取材班達は風邪薬くらい持っているんだろうから、分けてあげれないものだろうか?
などと頭をよぎってしまった。
少なくとも西洋医学を酋長が知っていれば、助かった可能性は高かっただろうと。
そうだとしても、皆で悲しみをあらわにしながら埋葬する映像を見て、
その子は不運ではあっても、決して不幸ではなかったのではないかと、ぼくには思えた。
親や酋長や多くの仲間に見守られて死んで行ったその子は、
短い人生の中でも沢山の愛を受けることができたのだと感じられたからだ。
ちょうどその頃、実家で読んでいた新聞では、虐待死の問題が特集されていた。
実の親からさえ愛を受けることなく死んで行く子供がいることの事実を
信じられずにいた時だったから、そう感じたのだと思う。
さて、実はここからが今日の本題。
ぼくたちは医療の発達で、死ぬはずだった命が救われ、
生まれるはずのない命が生まれる可能性を手に入れた。
それによって、ほんとうに幸せになったと言えるのだろうか?
出生前診断や代理母出産などによって命の選別まで行なわれる(代理母出産では
羊水染色体検査、着床前診断によって障害を持つ可能性のある命は排除されるケースが多い)
一方で、普通に生まれてこれた命の芽が摘まれていく。
生ばかりではなく、死もまた操られる。
生きる為に生命維持装置をする人がいるのは当然としても、
自分で死を選べなくなる人にとっての「死」とは?
まてよ、生命維持装置とは何だろうか?
生命維持装置を必要としているのは、病を持つ人とは限らない。
生命維持装置を、生体の生命を維持する機能が低下した場合
その機能の代わりを行う装置と定義するなら、
ぼくたちにとって生命維持装置とは、
例えば「コンビニ」のことといえるんじゃないだろうか。
「コンビニ」には生活する為の殆どが並んでいる、新鮮で美味しいお弁当にパン。
家にガスコンロなんていらないかもしれないと思えてしまう。
「コンビニ」は、たった独りでも生きられる為のとても便利な生命維持装置だ。
だけど便利さの反面、
大手コンビニの年間に廃棄した期限切れの食品は金額では400億円に上り、
その年の経常利益370億円を越えると言う。
医療を受けること以前に、
食べ物を手に入れることが問題という子供達が同じ世界にいるとは、
にわかには信じがたい。
VTRで見たような死の不運な体験の積み重ねから、
救いたい一心で発達した先進の医療や、豊かな社会システムのはずが
いつの間にかゴールのない迷路に迷い込んで、バランスを失いそうになっている。
それはきっと倫理の問題が置き去りにされて、
社会の進歩(?)が急速過ぎるからではないだろうか?
「なぜ代理母出産が認められないのか?」
この問いが難題なのは、決して法律が遅れているなんて単純なことじゃない。
次の問いと背中合わせの問題だからだ。
「なぜダウン症の子は生まれて来ちゃいけないのか?」
想像してみて欲しい、
羊水染色体検査を行なってダウン症である高い確率が示されたとしたら。
まして、経済的にもリスクの高い代理母出産において高い確率が示されたとしたら。
(代理母出産はいいけれど、羊水染色体検査はだめということはできても、
卵子や精子を選別することは避けられない。)
そもそも命を選別することは許されるのか?
医療の発達が倫理の社会的理解をはるかに越えてしまっている。
もしそんな判断をしないといけないとしたら、
夫婦ふたりでは心が押しつぶされてしまいそうになるだろう。
ぼくは命を選別していいわけがないと思うし、
生まれて来ちゃいけない命があるわけがない、そう信じたい。
でもこの理想が、誰かの心を傷つけてしまうなら、
感情論だけじゃだめなんだ、深く深く考えてみなければならない。
倫理とは決まっているものではなくて、ぼくらで決めていくものなのだから。
今日は自分でもさすがに大それた問題を取り上げてしまったなぁと思う。
今朝の新聞を読んでから、仕事中もず~と「?」が頭の中をグルグルと・・・。
答えの出るような問題じゃないのかもしれないけれど、
夫婦ふたりだけで考えることのできる問題では決してないと思うから。
社会の理解があってこそ、やっと下せる勇気ある決断もあるもんね。

コメントをどうぞ

「CGで充分」という手もある。

その消費は、ほんとうに必要か?
磯崎新さんが「住宅の射程」という本の中で、
最近の「デザイン」住宅のブームを受けて、このようなことをいっている。
「テレビを見ていると、カッコいい住宅みたいなものがコマーシャルに出てきますが、
ヴァーチャルにCGアニメーションでつくれるんです。
だから、なにも実際の建物をつくらなくても、
海の上に浮いて、柱が細くて、ガラスが透明で、
きれいな夕日が射しているカッコいい住宅といったものは、
今はコンピューターですぐできます。
実物をつくって、そこに住む必要はないです、コマーシャルの世界なら。
だけど、実際の小住宅でも、そういうものをつくろうとしてますね。」
そのような住宅は、ほんとうに必要だろうかと問いかけている。
はたまた前回のブログに書いた、
平野啓一郎さんの「多生懸命もたらす世界へ」という記事の中には、
セカンド・ライフ内には参加者が建てた、
「建築家の過激なスタディのような建物が方々に乱立している。」
というくだりがある。
ああ、もうこれでいいんじゃないの・・・、そう思った。
ブーム、流行というものは何にでもあるもので、ファッションや音楽ならまだしも、
ペットや家なんかになってくると、そうとうに考えもの。
欲求を満たすだけの、必要以上の消費であれば、
もう仮想世界ですればよいのではないだろうか。
今の製品の多くはCGでデザインされ、
CGを元に、モデリングマシーンで忠実にモックアップまで行われる。
オートマティックに製品化され、消費者の手に届く。
ほんとうに必要でないものならば、
CG→モノ(物質)→金 
よりも、
CG→金
の方がよほど効率的で、環境に優しげだ。
もしそれで消費欲が満たされるのであれば、
モノ(物質)なんて、資源を使ってまでつくらなくたってよいのかもしれない。
ぼくらが必要以上の消費を行わなければ、この経済活動が維持できず、
資本主義がその維持の為に戦争と隣り合わせだとするなら、
経済活動じたい仮想空間で行えばいいじゃないか。
「セカンド・ライフ」がアメリカで受け入られやすいのはよく分かる。
アングロサクソンが手狭になった土地を飛び出して新天地を求め、
歴史と切り離された(離した)土地にアメリカをつくった。
特定の文化をもたない「るつぼ」は、あらゆる欲求を飲み込んで、
気付いたら地球まで手狭にしてしまった。
森から都市へ、都市から仮想世界へ。
手狭になった地球を飛び出して新天地を求め、
ついにはネットの中にもっと自由で、欲望に忠実な「仮想都市」をつくったのだろうか。
もう経済も戦争もそこですればよいのかも。
いまだに日本では、手狭になった土地を上に延ばすことをやっているけど、
あらかじめ決められた店舗やオフィスで埋め尽くされたヒルズやタウンなんて、
必要があって商店が建ちゆっくりと淘汰され
しぜんと人や物の流れをつくる街に比べたら、バーチャルタウンと大差はない。
そんなビルはわざわざ実物を建てる必要が本当にあるのだろうか、
CGで充分じゃないか。
そこで売られるものもそうだ。
すてる技術や整理整頓の技術の本が書店にたくさん並ぶほど、
すでにものは溢れていて、
ぼくたちは消費することに疲れている。
それでも「経済」が大事なのであれば、
音楽や本が「データでもういいんじゃない」というのと同じ感じで、
必要以上のものは「CGで充分」という手もあるかもしれない。
今の経済は、つまるところ株価の変動があればよいわけで、
そんなゲームのために、地球を汚してまでする「経済」は
「暮らし」に比べたらとるにたらないものだ。
う~ん、ちょっと妄想がすぎたかもしれない。
ものづくりをする人間として自分の首をしめるような妄想なのだろう。
とにかく資本主義ゲームを現実でするにせよ仮想でするにせよ、
ゲームをつくった人間が一番儲かる構図は変わらないことには、注意がひつよう。
まぁ、ゲームから降りるって手もあるけどね。

コメントをどうぞ

仮想現実は新世界?

今朝の新聞に「多生懸命もたらす世界へ」という記事を、
平野啓一郎さんが書いていたのがとても興味深かった。
その文章を要約すると、
「一生懸命」と言う言葉は、「一所懸命」の転じたもので、
元は鎌倉時代の御家人が、
幕府より与えられた土地を命懸けで守ることを意味していた。
「一所」から「一生」への変化は、人間が場所から解放され、
その流動性の獲得によって、アイデンティティの根拠が
生の軌跡そのものへと移行したことを示している。
懸命に生きるのが「一所」にせよ「一生」にせよ、
こうした発想が説得力を持つ根拠は、
我々の人格の住処である「身体」が、結局のところ、
分割不可能な単一性を宿命づけられていたからである。
ところが、インターネットが備えることとなった「世界性」によって、
その事情が今、変わりつつある。
ネット社会の発展により仮想現実に自由な人格を持った人間は、
「一生懸命」から「多生懸命」に生きることになるという。
ブログやSNSが一般化し、次には「セカンド・ライフ」という
もうひとつの「世界」がアメリカで人気で、
近日、日本語版が登場するのだそう。
三次元の仮想社会に願望通りの「自分」をつくり生活をさせることができる。
好きな服、乗りたい車、カッコイイ家に住み、参加者たちと会話も楽しめる。
すごいのは「セカンド・ライフ」内の経済活動を通じて得た
「リンデン・ドル」という通貨を、現実のドルと交換可能だということ。
かいつまむとこのような記事だった。
えっそんなことほんと可能?と思ってしまうが、
すでに四百万人が参加し、
トヨタや日産もセカンド・ライフ内に土地を所有していたり、
セカンド・ライフ内でのみ店舗を持つ会社もあると聞くと現実味を帯びて来る。
以前からネットゲームなどではゲーム内のアイテムを現実のお金で取引したり、
ゲーム内で知り合って結婚したカップルのお祝いに
ゲーム内のアイテムをプレゼントしたり、
はたまた、現実の彼氏とケンカして、ゲーム内の彼の所有物を勝手に捨てたら、
現実世界の裁判所で有罪になったなんてこともあったぐらいだから、
仮想世界での経済活動と現実世界の経済活動の価値が、
交換可能というのは既に起きていることなのだ。
ゲームに興味のない人でも、SNSの延長なんてぐらいな感じで参加し始めたら、
「セカンド・ライフ」という「新世界」がほんとうに出来上がり、
仮想世界の自分の方が重要であったり、
仮想世界でのみ金を稼ぐ人というのも現れて来るだろう。
神に背いて知恵の実を食べ森を追い出された人間が、
脳が描き出した都市という半仮想世界を経て、
たどり着くべくしてたどり着いた、
完全な人工の世界「セカンド・ライフ」。
動物である不自由さから自由になった人間が、
人間である不自由さからまでも自由になれるだろうか?
ぼく自身はこの種の仮想世界そのものには
まったく興味が湧かないのだけれど、
それによって世界がどう変わるかにはすごく興味が湧いてしまう。
眠くなったので、つづく・・・。
ちなみに平野さんの興味は、
ひとりの人間が多(くの)生を持った時に(身体から自由になった時)、
ある人とまた別の人との差異というのは、何か?ということにあるようです。
攻殻機動隊なんかで扱われているテーマに近いのかなぁ。

コメントをどうぞ