ゲゲゲの錬金術。

明けましておめでとうございます。

年の初めですが、大掃除に追われ年末に書けなかった話しをひとつ。
毎年のことだけど流行語大賞が発表されると、今年も流行に乗れなかったなぁと思う。 
田舎だからか、TVを持っていないからか(おそらくはほぼ後者の理由で)流行に縁遠いらしい。 
昨年は「ゲゲゲの~」が流行したとか。  
「ゲゲゲの~」が流行っていたのは知らなかったけど、 
『ゲゲゲの鬼太郎』は小学生の時から好きだったし、 
水木しげる大先生は僕の人生を方向付けたと言っても過言ではないぐらい尊敬している。
水木先生の作品で好きなものに『ねずみ男の冒険』(筑摩書房)という短編集がある。
全話あの「ねずみ男」が主人公という変わり種で、 
特に好きな話しが『錬金術』というたった11ページの話。   
世は江戸時代か、夫婦と1人息子の三人家族が何やら怪しげな作業に没頭している。 
壷の中に棒をつっこみグルグルと回しながら「猫の頭は茹で上がったかーっ」と父がいう。
「ガマの油できました」と息子、 
「早く入れろ!、早く猫の頭」と父、 
「あいよ」と母が茹で上がった猫の頭を壷に放り投げる。 
「三太(息子)早く神様にお燈明をあげて!いよいよ猫の頭が金(きん)になるのよ」 
怪しいことこの上ない作業が手慣れた様子で進んでいく。
壷をかまどに載せてしばらく煮込むらしい。 
「おら、この間に丹角先生のところへ行ってくる」と父は外に出る。  
父が会いに行く丹角先生なる人物が「ねずみ男」である。
(鬼太郎のねずみ男と同一人物かは分からない) 
「いよいよ成功したか」と父に聞くねずみ男、 
「先生にご指導いただいた無上九還丹の秘法で・・・」と真剣だ。 
「うむ急げ」2人が家に戻ると、 
「お父つぁん失敗だ」と壷を前に肩を落とす母と息子。 
「どこかに落度があったのだ」とねずみ男がいうと、 
「そうだ、丹角先生の言われる通りだ。猫の頭が金にならぬはずがない」と父。 
「唐土伝来の『もがりの術』併用してみてはどうか」と次の手を教えるねずみ男。 
「そうねえ、私早々質屋に行ってくるわ」即答する母に迷いはない。
「では次回の成功を祈る」 
ねずみ男が帰ると、足を抱えてしゃがみ込む息子が言う、 
「これで三百六十五回目の実験に失敗したんだ・・・果たしてこの次成功するかなぁ」。 
「ばか!ただの小石を純金にかえることができれば、
どんな借金があったってすぐに返せるのだ」すかさず父。 
「そればかりではない我が家の前途・・・いや子々孫々にも非常な幸福をもたらすのだ」  
「あなた材料買ってきたわ」風呂敷を抱えて母が戻って来た。 
「今度はきっと成功よ」「うん」再び作業に没頭する家族。
猫の頭を準備しながら、おもわず独り言をもらす息子、 
「ああして何年も錬金術にこってるけど、一体ほんとうに石や瓦が金になるだろうか」
「三太なんてバカなことを考えているの『信ずるものは救われん』とかのバテレンの聖人も
おっしゃってるじゃないの、ねえ、あんた」
「そうだ」 
「さあここらで丹角先生の言われた『もがりの術』を併用してみましょう」 
「うむ」母と父が熱中する横で、 
「唐土伝来『もがりの術』ってなんだろ」と、つぶやく息子。 
息子のことは気にも留めず「ほいきた」「ほいさ」と没頭する夫婦。 
「ドッカーン!」 
大爆発で家は半壊、家族は吹き飛ばされる。 
そんなことは意に介さないといった様子で壷を抱えて、 
「やっぱりだめか」「またやりなおしだわ」と話し合い、
「ひひひひひひ」と笑い出す夫婦。
 この場面の注釈として『別に気が狂った訳ではない。よく熱心な宗教家や奇人が、
希望も何もないような生活をしていながら、 希望に満ちた笑い声を発することがある。
その笑い声と同じ笑い声なのである。』と添えられる。 
場面は切り替わり、 
「なんて無為な生活だろ」とひとりで何処かへ歩いて行く息子。 
「両親も両親だが丹角先生も丹角先生だ」ぶつぶつ言い、誰かの家の戸をたたく。 
「なんだ?ここだよ」とねずみ男。 
「丹角先生言いにくいことなんですけど、僕の両親をこれ以上まどわさないで下さい」 
「まどわす?ばかな。お前達が幸福になったのは錬金術をはじめたからじゃないか。
 瓦が金になりはしないかという果てしない希望。それによってもたらされる充実した日々・・・」 
「だけど錬金術からはいつまでたっても金は出なかったじゃないか」 
「錬金術は金を得ることではなく、
そのことによって金では得られない希望を得ることにあるのだ」 
ねずみ男は目をまんまるにして、 「人生はそれでいいんだ・・・・ 
この世の中にこれは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね、
すべてがまやかしじゃないか」と。 
ねずみ男の言葉に、息子は「はっ」とする。(この時の息子の表情と仕草がとても可愛らしい) 
そして田んぼ道をひとりぽつりと帰る息子の姿で話しは終わる。   
と、まぁこんな話しで「本当の幸福とは?」とか「生きる意味って?」
みたいな答えの出ない問いが頭に浮かんじゃう時に、良い(?)処方箋になる漫画。 
仮に『錬金術』が成功し金を生むことが自由自在になれば、 
希少性に裏付けられる金の価値は粘土程の価値もなくなってしまう。 
いわば成功したとたんに振り出しに戻る訳で、 
夢から覚めてみれば「瓦が金になりはしないかという果てしない希望」のただ中にいた時の方が 
幸福だったなんてなことになりかねないのだ。 
実際には「紙幣」という『錬金術』に成功した人がいて、 
さらには『もがりの術』併用することにより証券だの株券だのという、 
いつでもサブプライムな世界の出来上がりとあいなったとか。 
「この世の中にこれは価値だと声を大にして叫ぶに
値することがあるかね、
すべてがまやかしじゃないか」とさとるほかない。  
『錬金術』はかつては怪しいものでもなんでもなく、ちゃんと学問だった頃もあった。 
かのアイザック・ニュートンも錬金術師のひとりであり、 
『錬金術』はその実験によって副産物というか、
こちらが本当の金とでもいうべき「化学」を生んだ。 
経済学者のケインズは
「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だ」と言ったそうなのだが、
未来の価値観から見ればオカルトに見える類いが、
現時点では大真面目なことや常識であるというだけ。 
「紙幣」なんてもんが存在した魔術の時代があってねと、
オカルト少年達が嬉々として語り合う時代が来るかもしれない。 
「野口英世」って人がいてね「紙幣」にまで描かれるくらいに努力した偉人だけれど 
「彼の業績で今日意味のあるものはほとんどない」んだってね、
と電子顕微鏡なき時代のウイルス漏れを指摘した所で、
彼は彼の『錬金術』の成功者であり、ついには「紙幣」という『錬金術』の顔である。  
水木先生の『錬金術』は「妖怪」であり「漫画」だ。 
短編の『錬金術』で没頭する夫婦こそ水木先生ご本人とゲゲゲの女房で、
僕たちに多くの夢や希望をその錬金術で与えてくれた。 
「錬金術は金を得ることではなく、
そのことによって金では得られない希望を得ることにあるのだ」 
なんと深遠なる先生のお言葉!
 この「」内の錬金術と金という言葉を自分の欲しいものに置き換えてみる・・・ 
「英会話は語学力を得ることではなく、
そのことによって語学力では得られない希望を得ることにあるのだ」 
「ダイエットはスリムな体を得ることではなく、
そのことによってスリムな体では得られない希望を得ることにあるのだ」 
この2つは特に人気の錬金術、叶えられそうで叶えられないバランスが絶妙な上、 
リバウンドや途中下車が多発するため関連グッズやスクールの錬金術も止まらない。 
「恋愛は白馬の王子(姫)を得ることではなく、
そのことによって白馬の王子(姫)では得られない希望を得ることにあるのだ」 
「自分探しは本当の自分を得ることではなく、
そのことによって本当の自分では得られない希望を得ることにあるのだ」 
これは度々テレビや本が煽るために人気、
陽炎を追うようなもので稀に見つけることができる人がいるというが普通はどこまでも錬金術。 
叶わないからこそ叶えたいのであり、見つかることはないから探し続けるのだ。
「本当の幸福とは?」とか「生きる意味って?」と右往左往してみたところで、 
「これは価値だと声を大にして叫ぶに値することがあるかね?」というのが真理なのだろう。 
しかし人は「生きる意味に値することがあるかね?」という問いには耐えきれず、
生きるために自分なりの『錬金術』を必要とする。
英会話、ダイエット、恋愛、自分探し、受験、パチンコ、起業、作家、アーティスト、宗教、
長期でも短期でも夢を見れるなら「人生はそれでいいんだ・・・・」。 
「漫画は金を得ることではなく、
そのことによって金では得られない希望を得ることにあるのだ」 
水木先生のような偉大な作家になるためには途中下車はできないが、 
幸福になるために自分なりの『錬金術』をはじめることは誰にだってできる。
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