『進化』を求めて。

前回のブログで、自分の作品を「ヘンテコ」なといい、
さらにそれをいい意味だと書きました。
すこし分かりにくい話なのですが、どうぞおつきあい下さい。

普段一人で工房で仕事をしている僕は、

個展に来てくださった方とお話をするのが、会期中の楽しみの一つです。
今回は特に若い作家さんや学生さんと話をする機会が多かったようで、
話の最後にはどうしても、ある同じような話題になりました。
それは、僕たち工芸家や芸術家などの表現活動で生きて行こうとする人は、
好きなものを作ることと、それでおまんまを食って行くことの間で、
右往左往、時にどっち行っちゃうの?てくらい迷走してしまうというような話です。
結局のところ、僕も未だに答えが出ていないし、
もしかしたら(おそらくは確実に)一生つきまとう問題なのだと思います。
なぜなら、
誰もまだやっていない新しい表現をしたいというのなら、
自分すら知り得ない世界をいつまでも探し続けるということだからです。
もし、安定した制作活動をしている作家がいるとするなら、
その作家は過去の作家ということになてしまうのかもしれません。
ぼくは、新しい表現というのは
この世界に完全に存在していなかったものとは考えていません。
誰もが知っていたのにもかかわらず、
いまだに皿の上にのったことのなかった料理のようなものなのだと思います。
ありふれた食材の味付けの仕方、
駄菓子にもならないと思われていたような食材の調理の仕方、
盛りつけ方を考え抜いたただけでも、
新しい味覚、新しい価値や文化を作り出すことができると思うからです。
そうした結果として、
その表現を見つけ出した人の中から、
その人が生まれてこなかったなら、この世界にその価値が生まれ落ちなかったものを、
芸術作品と呼び、芸術家と呼ぶのだろうと思います。
政治や経済は社会を『進歩』させ豊かにすることが役割ですが、
社会に文化的『進化』を与えるもの、それが芸術であり、
芸術にしかできないことです。
『進歩』と『進化』は似ている言葉のようですが、かなり違った意味があります。
ためしに『進化』を辞書で調べてみると、
 生物は不変のものではなく、
 長大な年月の間に次第に変化して現生の複雑で多様な生物が生じた、
 という考えに基づく歴史的変化の過程。
 種類の多様化と、環境への適応による形態・機能・行動などの変化がみられる。
 この変化は、必ずしも進歩とは限らない。

「必ずしも進歩とは限らない」とあります。
私たちは今、『進歩』を前提とした社会に暮らしています。
グラフにすると常に右肩上がりでなければならない社会です。
昨日より今日、一台でも多くの車が走っていなければならないし、
一着でも多くのジーンズが製造されていなければならず、
売上高やら、GDPやらがマイナスになることはあってはいけないことになっています。
マイナス成長なんて言葉によく表されています、成長ありきであると。

「長大な年月の間に次第に変化して現生の複雑で多様な生物が生じた」世界を、
百年足らずで、消費のために消費し、
「歴史的変化の過程」で生み出された多様な文化や習俗、言語までも、
グローバリゼーションという現象のなかで、消費のために消失していきます。
(例えばどの国でもGAPのジーンズを買うことができ、着ることが変だとは感じません)
生物が生き残る可能性を増やし続ける為に、多様な『進化』を選んできたのにも関わらず、
生活の豊かさの為に『進歩』させた社会が、世界を単一なものに変えようとしています。

突然ですが、ペンギンておかしな生き物だと思いませんか?
ペンギンが属する鳥類は、普通は空を飛んでいます。
人から見れば空を飛ぶことは、時にうらやましくさえ思えることですが、
ペンギンはダチョウのように空を飛ぶことを止めたばかりか、
海の中を飛ぶように泳いでいます。
『進歩』的な視点から見れば、なにか間違っちゃったやつという感じがしますし、
より上手に飛ぶ方向に頑張って進め!と促したくなります。
地上でのあの不器用な歩き方や、海中ではえら呼吸はできないから息継ぎが必要とか、
「(進化とは)必ずしも進歩とは限らない」という言葉が非常にしっくりくる生き物です。
しかし『進化』的視点から見てみれば、
地球上が空を飛ぶことができない状況になった場合、
例えば数年間豪雨が止まないような異常気象が続いた場合に、
鳥類で生き残るのはペンギンのみということもあるかもしれませんし、
地上では生活できないほどに降り続ければ、ペ
ンギンやイルカ、クジラといった
「ヘンテコ」なやつばかりが、魚類やプランクトン以外の生物の可能性を残すかもしれません。

芸術というのは『進歩』を前提とする社会において、
余裕がなくなるとまっ先に「仕分け」されてしまう分野です。
しかし、社会に『進化』を与え
結果的に「他の道」を用意するのが僕が思う芸術の役割です。

右肩上がりの『進歩』が続かなくなった時、
おそらくは近い将来にそうなった時に「他の道」が残されているように、
芸術は『進化』の可能性を追い求めます。
僕はペンギンのようでありたいと思っています。
鳥類といったジャンルに捕われない、
工芸でもアートでもデザインでもないような、あるいはそのどれでもあるような、
「ヘンテコ」な作品を作り続けて行きます。
『進化』を求めて。
さて、写真は六本木ヒルズの53階からの東京、すごい眺めです。
会期中に森美術館に『六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?』を見に行きました。
わざわざ問わなくてもとも思いますが、問うてみることも大事なのかな。
まぁ、53階も登ってきちゃうと、下の町にはその問いすら聞こえていないようには思います。
アナザワールド東京、クロージングワールド芸術。
・・・でもないか。


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コメント(5)

  1. 今回初めて六本木での個展に行かせていただきました。
    中川さん本人にもお目にかかれて♪
    あまりにもドキドキしすぎてお話ができませんでした。。。
    そんなわたしなのですが、以前から気になっていることがあります。
    思い切ってコメントさせていただきますが、ちょっと真面目なものになるかもしれません。
    中川さんの作品は日本にはない木、つまりチークやウォールナット、ホワイトアッシュといったどれも遠い異国の貴重な木ばかりですよね。
    考えてみれば、それは以前と比べて世界がより平らになったからこそ、いつでも何処にいても手に入れることができる木々だと思うのですが。
    そんなグローバリゼショーンと言えなくもない恩恵を存分に浴している場所から、大上段に(ごめんなさい)社会に「進化」を与えるのだと言われても、わたしには少し納得がいきません。。。
    たぶんわたしの頭が悪いからだと思います。
    つまり、ウォールナットの板を買うのと、GAPのジーンズを買うことの違いがよくわからないのです。もっと言えば、そんな外国の木をふんだんに使った中川さんの作品を買うのと、GAPのジーンズを買うことの違いなんてそもそもあるのでしょうか?
    世の中を見渡せば、生産者の顔が見える和綿で丁寧に手紡ぎをして、とっても素敵なマフラーやストールをこつこつと制作している人がいます。その自然なものづくりをする人のことを考えると、わたしは中川さんの言っていることに共感つつもやはりどこか矛盾を感じてしまうのです。
    もちろんかく言うわたしも、電気もガソリンも、お肉やお野菜だって着るもの全部にしたって、どんどん消費して生きています。地球の46億年の歴史からみれば、表面を急速に蝕むガンのような存在と言ってもいいでしょう。ましてや芸術なんて、そうした生きていく上での必要悪とも言える消費を土台にしてこそ、生来成り立たないものであることも、わたしなりに理解しているつもりです。
    ただもし仮に、中川さんがもっともっと身近な木で「ヘンテコ」なものをつくっているのであれば、とっても説得力があって仰っることがスッと腑に落ちて、わたしはますます中川さんのことをみんなに言いふらして回りたい気持ちになるのですが。。。
    生意気なことばかり言って失礼しました。
    中川さんに対する気持ちが強過ぎて、勝手にピュアなものを求め過ぎているのかもしれません。
    それに日本の木だけでつくったら、肝心の作品としての焦点を欠いた、つまらないものになるのでしょうか?
    でも最後に言わせて下さい。
    中川さんの作品は、みんなホントに遠い異国の木ばかりで、それがわたしの心を痛めるのです。
    こんな人間が一人でもいることを、どうか心に留めておいて下さい。

    kichiya (2010.4.26 17:40
  2. >kichiyaさん
    私の文章を深く受け止めていただき、熟考されたであろうコメントを寄せていただき心より感謝いたします。まったくおっしゃる通りだと思います。どんな言葉も嘘になり、本当になるということなのでしょう。極端に言えば言葉はすべて嘘なのかもしれません。言葉という不便な道具で作品のことを語れば、どうしても矛盾が生まれます。だから本来は全てを語るべきではないのかもしれません。私は矛盾を抱えています、そのことは私の常なる悩みであり、私の業です。そのことをkichiyaさんに、できるかぎりお伝えしたいと思います。
    例えば「あなたの作品は手作りですか?」「伝統的な手仕事ですか?」と聞かれた場合、私は「手作り・・・です」と答えます。しかし製材の為に「手押し鉋」「自動鉋」という機械を使っていますし、作品によっては「サンダー」という機械でほとんどの行程を行います。もし、作品の製材の段階から機械を使わずに、昔ながらにノコとカンナで板を製材したとすれば、おそらく今の10倍以上の時間がかかると思いますし、今のような作品は作れないだろうと思います。本当の「手作りを求めて」工房にある機械全てを使わないようにしたとしても、材料はどのように運ぶのでしょうか?裏山から切り出した木だけで作るとして、どうやって切り倒し、どうやって運ぶのか?化石燃料を燃やさずして、現在それは不可能なことでしょう。もし全ての矛盾を取り払うとするならば、山の中で仙人のようにもの作りをするしかないのでしょう。そのような実践を山奥で行う作家も幾人かしっていますが、さらに厳密に言うなら、買う人がそこに車で来るのでは意味がないのかもしれません。
    「手作り」なんてファンタジーと言っても過言ではありません。
    材料が輸入かどうか以前に、「グローバリゼーションと言えなくもない恩恵を存分に浴している場所から」何を言おうが、何をしようが意味なんかないのかもしれません。そんな虚無に陥ることは容易ですし、無駄な抵抗は今すぐ止めるべきだということかもしれません。
    シルクロードというものをご存知だと思います。大航海時代以前から人の欲するものを国を越え、大陸を越えて運ぶ道です。日本には「根付け」など象牙で作られた工芸品が多く残されています。象牙なくしては生まれえなかった文化というものが、各国に残されています。ゾウを絶滅の危機に追いやる一因であったことは間違いがなく、その為に命を落とした人もまた多くいたことと思います。愚かなほどに美しく、美しさが生む愚かな行為であったといえます。ただそれがシルクロードを生み、多くの文明を結びつけることを可能にしました。木材でも同じように国を越え大陸を越え、海を越えて運ばれ愛された木が沢山あります。ソビエト連邦が崩壊したぐらいからが、現在つかわれているグローバリゼーションという言葉の始まりの時期だとすれば、もちろんそれ以前にも多様な木が海を渡り、日本でも多くの工芸品につかわれてきました。今のように材料屋さんに電話をすれば手に入るという時代が特殊で、それまでも工芸家や職人は最高の材料を求め続けてきました。それほどに材料というものは魅力的であり、工芸家にとっては「自分」の分身、いや自分自身といっても構わないほどに、愛おしい(時に憎らしいほどに)存在です。海を越えようが、山を越えようが、どこまでも続く砂漠に命を落とそうとも手にしたい存在だと言えます。それは、一言で言えば欲であり、すなわち愛です。私が今の時代に生まれていなかったとしても、どうにかして愛する人を手に入れようとしたことでしょう。
    そんな欲や愛が今のグローバリゼーションの生みの親なのかもしれません。私は悩みます、今すぐに止めるべきではないかと。私が批判するものがアダムとイブの神話のごとく、森を追い出された人間が行き着くべきしてたどり着いた今だとするなら、今を批判することは人すなわち自分を批判することでしかない。虚無が襲う、今すぐ全てを止めるべきではないかと。
    フレデリック・バックは言うかもしれない「木を植えることから始めなさい」と。私は作ることを止め、私の孫が作る材料の為、木を植えるしかない。生まれ出ようとしていた文化の芽はつまれても、木の芽が生えることが方が当たり前に重要だと言えると、結論づけることもできるかもしれません。
    それでも私が作ることを許されるとすれば、私の作品で初めて木の色を知ってくださる方がいることです。その木の色はその土地の風土しか育みえない、そんな神秘的でいて自然な事実があるということを、未だ知らない方に届けることができるからです。
    kichiyaさんは、おそらく私の作品やこのブログを最近知ってくださったのではないかと思います。輸入材であることは以前説明し

    中川岳二 (2010.4.27 00:58
  3. 輸入材であることは以前説明したことがあり、私にとって当たり前なことだったので説明が足らなかったかもしれません。個展でもそのような質問がよくありますので、そのつど説明していますし、矛盾していることも自ら話しています。もし、kichiyaさんが個展会場で聞いてくだされば、ご納得のいくまでお話がしたかったです。ぜひ、一度私の工房に遊びに来てください。私の材料の扱い方を見ていただければ、その偏愛ぶりが一目で分かって頂けるのではないかと思います。普通は、暖炉の火種にもならないで捨てられてしまうような材料まで、私の工房では出番を待っています。それが私にできる、私の抱える業への、私なりの答えのひとつです。
    もしかしたら、的を射ない返答かも知れません。もしよろしければ、お電話を頂ければ嬉しく思います。誤解のないように、納得いくまでお話しするには、私の文章力は未熟すぎます。ブログの記事は、下手ながらになるだけ読みやすいようにと、極力短い文章で書こうと心がけています。省略したところに誤解や矛盾がにじんでしまうようです。私の謙遜が足りなかったのかもしれませんが、私は私の作品が社会に「進化」を与えるとはいっていないつもりです。結果的にいままでの芸術作品や芸術家がそうであった事実を書いたつもりでした。なるものではなく、なったものですので、自分でどうにかできることでもないのですが・・・分かりにくいですね。文章は難しいです、ぜひお話がしたく思います。あ、あと私はGAPが好きです、私としては批判をする為に名をかりたのではなく、それほどに魅力的で社会を動かす力がある象徴だと思うからです。ペンギンが好きだからといって、スズメやカラスが嫌いというのではないという感じです。どちらも可能性ですから。話がそれましたが、kichiyaさんとは友達になれるタイプの方と、ピンっとくるところがあります。お電話お待ちしております。

    中川岳二 (2010.4.27 01:01
  4. 遅くなりましたが、個展お疲れ様でした。
    そして、初めて直接お話し出来て嬉しかったです!!
    「進化」を求めて。・・・
    この文章は自分にとって凄く励みになっています!
    「それが正しいのか分からなくても、ひとまず自分が進もうとしている路を歩いてみたらいい」と背中を押してもらっている感じがしました。
    そして、相手に考えを伝えようとする中川さんの姿勢も見習いたいと思いました。
    ありがとうございます。
    また展示やHPなどで作品を拝見できることを楽しみにしています。

    しんぺー2010.5.4 10:42
  5. >しんぺーさん
    僕が伝えたかったことを汲み取ってくれて、ありがとうございます!
    しんぺーさんのコメントを読んで、このブログが救われたような気がしました。
    現時点では、僕の(僕たちの)作品に
    ほんとうに価値があるかなんて分からないし、矛盾だってあるかもしれない。
    しかし、だからこそ「今」の表現なのであり、
    もしかして未来から見たなら何の矛盾も、ちっとも「ヘンテコ」じゃない
    作品になっていることだってあるかもしれない。
    だから僕たちは、自分の「好き」を信じて、「ヘンテコ」を信じて、
    まるで祈るように作り続けて行くしかないのだと思います!
    結局のところ確かなことは、ただ一つです。
    個展に来てくださる方がいること、
    ブログを読んでくださる方がいること、
    応援してくれる人たちが、僕に自分の作品を信じる力をくれます。
    しんぺーさんも僕に作品の価値を信じさせてくれる一人です。
    ほんとうにありがとう!
    しんぺーさんの未来に幸あれ!

    中川岳二 (2010.5.4 21:39

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