アイ・ウェイウェイ展

先日、六本木の森美術館で開催中の『アイ・ウェイウェイ展』に行ってきたので、感想など。
アイ・ウェイウェイは中国を代表する現代美術のアーティストで、
世界でも最も注目されている作家の1人。

 
(館内写真撮影可、全てアイ・ウェイウェイの作品)
いちばん下の写真は『フォーエバー』と題された自転車を円形に繋ぎ合わせた作品。
中国の国民的自転車メーカー、フォーエバー(永久)社の自転車を使用。
急速に自動車中心の社会に変化している中国で、
永久と車体に書かれた自転車が組み上げられた作品は、
自転車の「永久」について問い、自動車社会の「永久」もまた問う。

中国の今をありのまま提示することで、世界の中の中国をどう理解し、
どう理解されるのか?そのこと自体がアイ・ウェイウェイの作品なのだと思った。

ぼくが気に入った作品は展示最後の『童話_椅子』という映像とインスタレーションの作品。
(暗かったので作品の写真はなし、気になる方はグーグルの画像検索で)
これは2007年にドイツで開催されたアートフェア「ドクメンタ21」で、
1001人の中国人と1001脚の清時代の椅子を展示した『童話』プロジェクトの
準備から展示終了までをドキュメント映像にまとめた作品。

中国各地の1001人をドイツに招き、展示会場に仮設した宿泊施設に寝泊まりしてもらう。
泊まるのがホテルでなく展示会場だというだけで、単なる団体ツアーと言ってしまえばそれ。
これと清時代の椅子を1001脚集めて、会場のあちこちに展示した。
特に何かを作ったわけではないが、中国全土から参加者を募り、
老若男女の参加者の大半が少数民俗の農民ということもあり、
1人1人のパスポートの面倒から、スケジュール管理、椅子の補修など、
時間とお金がまったく足らないといった感じ。
美術作品の制作とは無関係に見える裏方の仕事をまとめあげるのは相当に大変そう。

映像は実際に清時代の椅子に腰掛けて観ることができ、
中国とドイツを小旅行したようで楽しかった。

さて、この作品のぼくの思うポイントは2つ。

1001人は何を問う?

美術、特に現代美術に価値を見いだすのは「近代」化された国、
つまり西欧の価値観でものの善し悪しを判断する国の人だということ。
もっと簡単にいうと『ミシュランガイド』をありがたがってしまう国の人である。
今まさに西欧化されつつある中国の人々、特には農村の人々が現代美術の作品そのものになる。
つまり現代美術の価値など理解しえない人々が作品そのものとなり、
理解される側に回るのである。
極端にいえば、「美術なんてどうでもいい人」と
「美術を理解したい人」が互いに見られ、見る関係になってしまうのだ。
そしてその関係は、社会の枠組みが変われば(もしかすれば展示される場所が変わるだけで)、
逆転してしまうかもしれない。
裸の王様はどっちだという作品である。

1001脚の椅子は何を問う?

椅子は人間が生み出した道具の中で、特異な存在だ。
人の仕事や食事、休息の姿勢を支えるだけでなく、時に権威を支え、
社会・文化の変革を潜在的に支える。
多木浩二著『「もの」の詩学』にこうある。

西欧が近代化を世界中ににひろめたとき、椅子がほとんどの非西欧世界に浸透し、
それらの土地にあった民族的な座法を変えていったことはよく知られている。日本
の文明開化を考えてみればよい。西欧文化を受け入れることが近代化であったか
ら、椅子とテーブルの生活が実質的にはまだ「近代化」していない社会に入り、椅
子とテーブルにともなう新しい身体技法がこれまでの伝統技法とのあいだに差異を
生じたので、それにもとづく記号機能を発揮したのである。これはその社会(明治
社会)が近代社会を目指していたから、家具および新しい立居振舞が近代性をあら
かじめ示す情報(記号)になった例である。

ちゃぶ台を捨て、畳を上げ、椅子の生活を取り入れていった日本の近代化。
それは、まことにすみやかに受け入れられていったように見える。
畳に座ることと、椅子に座ることには本質的な優劣はないはずなのだが、
近代化が西欧化であり椅子に座ることだったということ。

それに対して中国はもともと椅子の文化であり、独自のスタイルをもった椅子が存在している。
どちらが近代化しやすいかといえば、前者の日本なのだと思う。

経済発展の原動力はものをつくり売ること、ちゃぶ台を捨て椅子を買うことは、
新しい家を買うこと、山を崩してニュータウンをつくることに繋がっていく。
新しい暮らしと、古い暮らしの分かりやすい記号があれば、人やものの流れが作りやすい。

日本に対する中国の近代化の遅れは、もろもろの政治的要因や、
中国語(漢字)の英語との親和性のなさ(例えば日本語はニュータウンなどカタカナでやくせる)
と同じように、西欧的な暮らしという記号の曖昧さがあるのかもしれない。

とわいえ、ドキュメント映像の中で、とある田舎の村の参加者の人々が、
「海外に行って、外人と結婚して帰ってくれば、この村にもレンガの家が建つわ」
というような、憧れと希望に満ちた会話をしていた。
(ぼくの親くらいの世代が中高生の頃にこんな会話をしていたんじゃないだろうか。)

近代化された国の六本木のビルの上(森美術館)から見れば、
彼女たちの村は必然的に統一感をもった木造の家が立ち並ぶ、のどかな風景の美しい農村である。
この村もいつかはレンガの家や新建材の家が建ち並び、
近代化が一周すれば「木の温もりっていいわ」といっているのだろうか。

作品の上映が終わり、清時代の椅子から立ち上がりながらふと気づく、
会場の椅子に腰掛けるぼくもまた作品の一部となり、
見る側、見られる側は、いつの間にか逆転してしまっていたのだと。

そして思い出した。
ニュージーランドに住む兄のところに遊びに行っていた母が、
向こうからぼくの娘に買ってきた誕生日プレゼントはmade in China。
行く時に持っていった兄の子に買っていったプレゼントもmade in Chinaだった。
それぞれニュジーランドと日本のメーカーなのにもかかわらず、
ずいぶんと長い旅をするものだと笑ったこと。

1001脚の椅子が意味するものは何か。
西欧化があまねく行き渡り、
グローバル社会の中で中国がますます重要な国になっていった時、
我々が座っているのは西欧の椅子ではなく、
中国(製)の椅子(全て)であることに気が付くことなのだ。
その時、世界の文化的ヒエラルキーは逆転しているかもしれない。
フォーエバー社の出すガイドブックを手に、
京都の三ツ星レストランで舌鼓を打つのである。

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