piyoさんへ。

piyoさんへ
「命。」のブログにコメントありがとうございます。
「ほんとう」が語られた文章に心が揺すぶられ、ただただ感動しました。
ぼくなりに考えてみたことを長くなるとおもうので、
このブログで返させてもらいたいと思います。
染色体に異常のある確率が50%と告げられた時、
ほとんどの人はどちらを選ぶべきか、
答えが出せないのではないでしょうか。
なぜなら多くの人にとって障害とは特別なことだからです。
ぼく自身が障害をもった子が生まれてきても「大丈夫」だと思えるのは、
母親が養護学校の教員をしているという特殊な環境だからなのだと思います。
ぼくは障害を持った子供達が、
どのような人生を送ることができるのかを具体的に知っていますし、
実際に育てるとしても、母に相談すれば
ほとんど解決してしまうという安心感があります。
一般の人の多くは、突然自分の子供が障害を持って生まれて来ると告げられた時、
障害を持った我が子が幸せな生活を送れるイメージがわきづらいかもしれません。
程度問題ではありますが、養護学校の高等部を卒業し、
イオンやユニクロといった企業に立派に就職していく生徒達もいます。
考えてみれば、養護学校や授産施設の存在、障害者年金等の保護制度のことなど
普通に生活していてもなかなか知る機会はないものです。
それに知っていさえすれば、迷わずに判断が下せる訳でもないと思います。
ぼくの母にしたって、けして若いうちからすべてを受け入れられるような、
強い人間ではありませんでした。
実をいうと、ぼく自身が障害を持って生まれる可能性が高かったために、
家族の中でも「生むか、生まないか」意見が分かれました。
父親と父方の祖母は生むことに反対でした。
大学で障害者教育を専門に勉強した母でも、心は揺れたそうです。
妊娠をしている女性はそのことだけででも不安定な状態にありますし、
その中でどんな判断をするべきか迫られることの大変さは、
想像を絶するのではないでしょうか。
特に当時は障害児教育はまだ本格的には始まっておらず、
障害を持った子の多くは社会から閉ざされた存在でした。
自閉症などについては、
母親の育て方に問題があるなどという偏見が普通だった時代でもありました。
近年では不妊治療や検査等の技術がある以上、
それを選択すること自体に問題はないと思います。
ただそこに必要なことは、そのことが何を意味するのか
夫婦で、そしてまわりの家族で、悩み話し合うことではないでしょうか。
そのことを悩み続けているpiyoさんなら、
もし授かった子に障害があったとしても、幸せな人生が送れるように、
一生懸命に考えてあげられる母親になったと思います。
結果としては、その時に悩み苦しんだことで
子供が無事に生まれてきてくれることのありがたさや、幸せを、
苦しんだ分かみしめられたんじゃないでしょうか。
もし子供に話したい気持ちがあるのなら、
悩んだこと、苦しかったこと、そして生まれてきてくれて幸せに思ったことを
正直に話してあげればいいかもしれません。
ぼく自身は、おろすべきだといった父や祖母を恨んだりしたことはありません。
それだけ難しい判断であることは、きっと理解できるようになると思います。
命の選別をするこは、
夫婦ふたりでは心が押しつぶされてしまいそうになってしまう問題です。
障害をもった子を産むことを決める時には、
夫婦やその家族だけではない、
社会的な共通理解が今以上に必要であると感じています。
そのような状態にほど遠い現状では、
検査やその判断に対する是非は問うべきではないと思います。
もちろんそれは自分自身の判断に対してもです。
piyoさんはその検査を通して、
すくなくとも障害児に対して知りたい気持ち湧いたのではないでしょうか。
きっとそのことがpiyoさんにとって検査を受けたことの意味なのかもしれません。
社会の仕組みを障害を持った人の目線で考えることは、
健常者にとっても重要なことです。
例えば、健常者であってもニートと呼ばれ社会に出て行けない人がいるのは、
効率化された均一な社会が、万人には生きにくいからです。
その一方では、障害を持って生まれてきても
立派に社会人として働いている人もいるのです。
教育や援助の仕方で、多様な人が社会のなかで働くことができる。
これが本来の社会のあるべき姿です。
このことをきっかけにpiyoさんも、障害者とくらす社会について、
一緒に考えていきましょう。
そうそう、もう一歩踏み込んで考えてみると、
ほんとうは障害者とは決して特別な存在ではないと分かります。
下記は前に書いた文章の引用です。
よくよく考えてみると障害者と健常者の
「さかい」というのは曖昧なものだと思うのです。
ぼく自身は本来は「さかい」などないと考えています。
視覚障害は先天的な方より後天的になる方のほうが多く、
身体障害にしても老化による身体の衰えは誰の身にも訪れます。
認知障害(ぼけ)のことを考えれば語弊があるかもしれませんが
全ての人は知的障害になるとも言えると思うのです。
障害とは誰のものでもあり、
健常者とはまだその状態にないだけだと考えられると思います。
というわけで、
さらにぼくの大好きなマンガからの引用です。
「どしてみんな同じに、つくらなかったか?」
「デブッちょ、やせっぽっち、ノッポ、チビ助、こわい人、やさしい人、いろいろ。」
「ちっぱいしてんの。神さま、いっぱい。」
byシロ(松本大洋著 鉄コン筋クリートより)
実はみんな失敗作で傑作なのかもしれません。
おまけにもうひとつ。
「多様性(いろいろ)は、きっと神から人類への贈り物だ。」
by茂木健一郎
これ最近ビビビッときた言葉、
人の存在まで効率化することなかれです。
おっとっと、また大風呂敷になる前にこのあたりにしておきます。
(ブログを読んだ家族に大風呂敷を広げ過ぎじゃない?と指摘されたのでした。)

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コメント(2)

  1. テイクジーさんへ 
    メッセージありがとうございました。
    私が検査をして得た事はいろいろありました。
    とにかく今は
    命と健康を感謝せずにはいられません。
    それまでは障害を持っている子に対して
    かわいそうだと、とても特別な目を向けていたことに
    気づかされました。
    じっと見たり、目を合わせてはいけないと思っていました。
    でも彼らは決して自分の障害をかわいそうだなんて
    思われたいとは感じていないはずです。
    障害は特別な家庭にだけ起こる事ではない・・・
    今は、障害に負けることなく頑張っている
    彼らやご両親にエールを送りたいと
    そう思える自分がいます。
    障害もまた個性、
    そう思える社会が早く来ることを願っています。
    そして将来、私の子にも検査を受けた事を
    知ってもらおうと思います。
    妊婦の頃、つけていた日記に
    この子をどうしても生みたい、
    という気持ちが詰まっていました。
    この日記を見せることで
    私が得た命の大切さを伝たいと思います。
    授かった命、大切に育てていきます。

    piyo (2007.3.31 22:27
  2. >piyoさん
    ぼくの方こそ、考えを深める機会をくださって
    ありがとうございました。
    なかなか答えの出る問題ではありませんが、
    いろいろな人の体験などを話し合うことで、
    ぼんやりとつかめそうな気がします。
    ぼくはハッキリとは憶えていませんが、
    高校生の頃、ちゃんと聞かされたと思います。
    なにかの話の流れだったような。
    お子さんが、自分も親になることや、
    授かる命について関心が湧いた頃、
    その日記を見せてあげれば、
    お母さんのつづられた思いが
    なによりの教科書かもしれませんね。

    中川岳二 (2007.4.1 00:44

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